本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

わかるようでわからない、わからないけどわかる

2018-05-18 21:36:10 | 十地経

仏教の話は難しい!!

わかるかといえば、

なんとなく、

けどわからない、

かといって、

まったくわからないかといえば

そうでもない、

ぼんやりとわかるところもある。

 

朝からヨーガに励む

たっぷり汗をかいて

夕方4時からは聞法会

唯識もヨーガ学派といっています

ヨーガの体操と

唯識という人間の心理学

どこでどう結びつのだろう。

 

聞法会も休みなしで3時間続く

結構疲れる

今日ちょっと不思議な体験したのは

朝からのヨーガで体のゆがみをとり

まあ一応、基本の形になったような

そのおかげか

足を組み替えながらの半跏坐で

姿勢も正しく持ち堪えた。

 

聞法ということも

ただ聞くというだではなく

集中力もいるし

身体がぐらぐらしていたのでは

なかなか聞けないのです。

とうことは

今朝のヨーガの体操は効果が

あったのか??

 

今ではヨーガという体操の面だけが

注目されがちですが

その根底には教えを聞きつづける

という、基本的な身体づくり

ということが要求されるのでしょう

 

なかなかですが

教えを聞くということも

自分を無にしなければ

聞けるものではありません

あれやこれや自分に都合がいいとか

考えていると

話しはどんどん進んで行き

とうとう話についていけなく

なります

耳に入って来るものを

好き嫌いを越えて聞けばいい

身体中を耳にして聞きなさい

という三浦先生の言葉を

思い出します。

 

よく考えれば

わかる話というのも

あやしいもので

自分の頭にわかるような話であれば

そんな話たいしたことはないのです

自分を超えた話であれば

解らぬのは当然です。

かといって

まったくわからない、

異質な話かといえばそうでもなく

わからないけど、

心の底に何かしら響いてくる

そういうことは感じとれるのです。

 

「不思議」

ということをいいますが

「ふしぎちゃん」

という言葉もありますが

思議することを否定しているのです

思議すべからず、という

人間の理解を打消している

浅はかな人間の考えなんて

たかがしれている

そんなものを持ち出して

本当の話を聞くな

ということでしょう。

 

一切のはからいを捨てて

素直に耳を傾ける

そこに聞法の大切さがあるように

思うのです。

自分の頭で噛み砕けないような話

そういう話の場に身を置くという

そういうことが大切だと思います

儲け話でもなく、

かといって

上手に持ち上げてくれる話でもなく

どちらかというと

自分に都合の悪い話

そういうわからない話に

たまには耳を傾けるのも

大切なことです。

 

聞くためには

身も心も柔軟にしておく

そういうことで聞法とヨーガ

つながりがあるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

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