熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
人と人との出会いは
本当に不思議です。
その出会いによって大きく人生が
変っていきます。
そういえば、お経の最初の文句
開経偈は
「無上甚深微妙の法は
百千万劫にも遭遇こと難し」
で始まります。
ここにも「遭遇」(そうぐう)と
書いて、「あいあう」と読みます。
出会いということも
いろいろの書き方があります。
逢う、もそうですし
遇うもあります
遭うもありますし
邂逅の邂もあうという意味です
それぞれに微妙な意味の違いが
あります。
開経偈の「遭い遇う」(遭遇)
という漢字は見た目は
事故に遭遇するというような
意味合いで使うことが頭に浮かんで
くるのですが
辞書では思いがけず出会うという意味で
千載一遇というような意味です。
ですから、
そこにはゆくりなくも遭い難くして
出会ったという
感動の意味合いも
含んでいるのでしょう。
振り返ってみると
高校生の時分、
祖父に反抗したという問いが
ずっと自分を揺り動かしてきた
ように思います。
その時に祖父より小さな種を頂いた
そして、三浦先生と出会い
そのことを通して安田先生と出会い
自分が変って行ったように思います
出会いも、
出会っただけで、こんにちわ
さようなら、で
終わってしまうことも多々あります
そこに何かがなかったら
心に響くあうものがなかったなら
本当の出会いは成り立ちません。
最初はほんの偶然だったかも
しれませんが、
出遭ってみると必然というか
出会うべきして出会うということが
あります。
歴史を見ていても
動かして行く人たちの出会いは
偶然の出会いが必然となって
歴史は動いたようです。
人はそれぞれに出逢いがあります
去っていく人もいれば
自分を根底から変えてくれる
出会いもあります。
本当に、
AIAU KOTO KATASI です。
何でローマ字なのか?
この開経偈を読む時
口癖で、「あいおうことかたし」
と読んでしまい、
ルビは「あいあうことかたし」です
何か音便とかあるのかな?
と思ってローマ字で書いたのですが
AI・AU・KOTO・KATASI
も面白いかなとおもって
表題にしたのです。
自分を根底から変えてくれる
出会いもあります。
どうぞ今年も
良き出会いがりますように!!
世の男性諸氏
女性の「すご~い!」という言葉に
弱いようで、
この言葉で調子づくようです。
ですから、なんでも
仕事にしろ、運転にしろ、手伝いでも
「すご~い!」と言っていれば
間違いにようです。
ふと気になったのは
漢字で書くと「凄い」となります
にすい偏に妻と書きます。
もとは「にすい」は雹とか氷を表す
言葉です。
「凄」もみぞれが降る時の寒々しい
感じをあらわす言葉です。
そこから、すざましい、とか
すごいという意味も
生まれてきたようです。
木偏に妻と書けば「棲」
すみかという字になります。
最近テレビを見ていても
なんだかとても漢字が気になり
余計なことかもしれませんが
すぐ辞書とにらめっこです。
すると、隣のページに
「冲」という字があります。
そうです、
伊藤若冲にこの字があります。
冲は氷を切る時の音を表し
そこから、むなしい、うつろ
というような意味も出て来て
若冲の名前の由来は
「大盈若冲 其用不窮」
という老子の言葉からのようです
大盈(だいえい)は冲(むな)しき
が若(ごと)きも
其の用は窮まらず、という
大きくて満ちているものは
何もないように見える
しかしそのはたらきは
尽きることがない
という意味になります。
まさしく若冲がなし得てきた
事業を表しているような気がします
それから、
にすいへんの字で気になったのは
「凌霄」(りょうしょう)さん
スティーブジョブスもよく訪れた
最後の旅行もご家族で
お見えになったそうです。
この凌霄さんの「凌」
もとは氷を集めておく室のこと
そこから、しのぐという意味が出て来て
凌霄とは天をもしのぐという意味で
志の高いことを指しています。
お会いしたとき
お店の名前の由来を
お聞きしたのですが、
にこっと笑って答えられません
ご主人も亡くなられ
今は次の方が
受け継いでおられますが、
凄いという字を引いていくときに
やっとこの字に出会い
あらためて意味を知り
また新しく
出会った感じがしました。
心に秘めた志を以て
社員から独立して店を起こされ
本物を扱う美術商を
営まれたのです。
振り返ってみれば
不思議な出会いでした。
しかし、
何もかもが不思議な出会い
このことも凄いことなのです。
『武士は食わねど高楊枝』
という諺がありますが、
私の育った頃は食べるものがなくて
いつもお腹をすかし
「腹へった!何か頂戴!」
というのが口癖でした。
すると、
この諺を持ち出して
腹へった腹へったといっては
いけませんと、
言われたものです。
今肥満ということ
が問題になっています
メタボリックシンドロームと
地球上でこれだけ飽食の時代は
ここ数十年の出来事だそうです。
仏教では事実から事実へといいます
ですから、
武士と雖も食べなかったら
腹へった、ということが事実です。
最近では科学の研究が進み、
以前は脳がすべてを支配していて
脳の指令によって
ほかの臓器や器官が働くと
考えられていましたのですが
それぞれの臓器が指令をだし
互いに協調しながら働いている
ということが分かってきました。
そこで、
肥満の原因も解明されようと
しています。
経典でも似たようなことが
書いてあるようです。
身体の意識ということをいいます
意識は心だけと思うのですが
身体の方が正直だというのです
最近よく「心を大切に」とか
「物から心の時代へ」
ということが叫ばれますが
では具体的にはどうしたらいいか
それは、
物を大切にすることです。
心の具体的な表れは物です
口では心を大切にと言いながら
物は使い捨ての時代で
とても粗末に扱われています。
心と物ということは
とても大切な関係です。
よく手紙の最後の文句に
「ご法体大切に」とか「ご法器」
という言葉を使います。
身体というのはただの身体ではなく
仏法という教えを入れる器
という意味があるのです。
心はよく嘘をつきます。
最近よく不倫とかが話題になります
事実は夫婦として共に暮らしている
のですが、
他の方が気になり心を寄せる
心は勝手に想像を膨らませていく
そこで、身はここにあるのですが
心は飛んで心を寄せる人と遊ぶ
ですから、
心こそ心に心ゆるすな
という歌もあります。
以前相談を受けたことがあります
小さな会社の社長さんですが
妻も子もあり仕事も順調、
そういう時に限って魔がさすもので
若い子が好きになった、と
その方が言うには
その若い子は心が純真で
その心を大切にしてあげたい、と
越えたのですか?
はい! お腹に…!
そこで、
仏教では二人の心を大事にするには
どういう教えを説いていますかと
なんとも都合のいい相談です。
そんな都合のいい話は
説いてないですよ!
どちらかを捨てるか別れるか
両方なりたつことはありませんよ
と答えたのですが
どんなに愚痴を言おうと
不平不満を言おうと
その心をじっと支えているのは
身体なんです。
身体は黙って支えている。
そこに体という意識の大切さ
今までは意識というのは
頭の脳にしかないと考えられて
いたのですが
器官や臓器にも意識がある
ということが解明されてきています
脳が指令を出すのではなく
臓器も骨も皮膚もすべてが
指令をだしあって
この私たちの身体を作っている
なんとも不思議な話ですが
これから増々そういうことが
解って来るでしょう。
仏教は唯物論的ですね
と言った方がおられますが
そういう面もあるようです。
しかし、
大切なことは
私たちがやったことや言ったことは
必ず心の奥底の意識(阿頼耶識)に
貯金され
利息として次の行動を起こすという
絵を描いた
あまり上手に描けなかったので
破って捨てた
絵はなくなってしまますが
絵が下手に描いたので破いて捨てた
ということを貯金するのです。
そこに些細なことでも
おろそかに出来ない
心の微妙な心理があるのです。
「武士は食わねど高楊枝」
というのも真理ですし
「武士は食わなかったら腹へった」
というのも真理です。
NHKの身体の不思議という番組で
そのようなことを思いました。
お経の始まりは「如是我聞」
仏道修行は「聞・思・修」
といいますように、
聞くということがすべての始まり
ではないでしょうか。
いよいよNHKの大河ドラマ
「西郷どん」が始まりました。
その中で、
西郷さんが幼い頃島津斉彬と出会う
剣が使えなくなった腕を悩み告白する
すると、
「これからの武士は真に民の声を聞く
それが本当の侍」と聞かされます。
剣術の時代は終わる
いかに民の声を聞くことができる人
が国を治めていくということでしょう。
聞くというと受動的に思いますが
本当に積極的に聞く力を持たないと
なにもできないと思います。
よく三浦先生からは
身体中を耳にして聞きなさい!
己を空しゅうしてきくのです。
自分の感情を入れずに
相手のいうことを素直に聞きなさい
ということをいわれました。
言われてみると
私たちが聞く場合は
自分にとって都合が良いか悪いかで
判断して取捨選択して
聞いているようです。
そのことはとても難しく
どうしても好き嫌いで
聞いてしまいます。
仏道修行は聞思修といわれるか
よく聞いて、そして自分で考え
それから実践する
実践すると必ずわからない点とか
聞いたことと違うことが出て来ます
そこでさらに聞き直すのです。
ある面からいうと
修行というと滝に打たれたり
断食をしたりと
目に見えることが注目されますが
それはその人の自我を増上させる
ことにもなりかねません。
聞くということは
どこまでも自分を失くして
相手の立場に立って聞く
ということなのです。
そこが一番嫌なところですし、
聞くという修行が一番つらい
ところでもあります。
人から褒められる修行は
自慢げにできるのですが
自我を消し去るという修行が
一番厳しいのです。
しかし、
なぜ聞くという修行を一番初めに
もってくるかというと
煩悩を対治するには
お釈迦さまもおっしゃったように
苦行という断食や滝行では
対治できないのです。
私たちの本当の心には
撥水コートのような膜が
かかっているのです
ですから、
ちょっといい話を聞いた位では
その時はそうかと思いますが
すぐに弾き飛ばしてしまうのです
本当の仏の種は
お経には
煩悩だらけの人間の心に
小さな種がくっ付いている
というように表現されています。
だからその種を芽生えさすには
繰り返し繰り返し
本当の話を聞くしかないのです。
聞いていくうちに
その撥水コートが破れてくる
そうすると
本当の話が耳に届くように
なってくるのではないでしょうか。
悩みを持った方には
お説教は意味ありません
ただ真摯に聞くしかないのです
繰り返し聞いていくうちに
自然と心も整理され
問題は自分にあったと
そこが見つかれば
自然に悩みも融けていくようです
子供さんも
本当はお母さんに話したい
けれども、
お母さんは忙しい
その話はあとでね!
となかなか聞いてくれません
けど本当は聞いて欲しいのです。
言うという教育よりも
聞くという耳を育てることが
大切なことのように思います。
お説教ではなく
ほんとうに聞くという発信力
あの人には何でも話せる
というその人の存在力が
これからは大事になってくると
思うのです。
本当に聞くという発信力です!
「1個の不良品が信頼を失う」
という記事を京都新聞で見ました。
書かれたのは、
NHKのTVドラマ
「マチ工場のオンナ」の主人公
諏訪貴子さんです。
最近気になっていたのは
日本の信頼を揺るがすような
トップ企業の不正問題です。
何故こういう事が起きるのだろう?
当たり前にあたり前のことを
していたら
何の問題も起こらないのに
と思っていたのです。
諏訪さんの言葉によると
不正をしろと命令する社長はいない
ところが業務の細分化で
効率が要求され、
目標値が定められていることだと
指摘しておられます。
そして、ものづくりの現場で、
「職人が持っていたプロ意識や
技術が継承されないのではないか」
との指摘もあると、
その大きな要因は「標準化」だ、と
ふと思ったのですが
仏教の中に表業(ひょうごう)と
無表業(むひょうごう)という
ことがあります。
表業とは読んで字の如く
表に表れた業ということで
見たり聞いたり行たりと
私たちが普段行っていることです。
ところが、
無表業ということになると
その反対で、表にはあらわれない業
今、実際に行っていなくても
そのことをしていないということは
いえないということです。
たとえば、
病気で会社を休んだ
しかし、出ていなくても無表の業を
行なっているということです
また、
志を起こしてお坊さんの修行をする
一端その場に身を置くと
夜寝ている時でもご飯を食べている
その時でも、
ちゃんとお坊さんの修行をしている
ということになるのです。
また反対に、
こういう事も聞きました
何も
パチンコや競馬というギャンブルが
悪いのではない
そういう事をやりだすと
そういう頭になってくることが
一番、怖いことなのだと
志を起こした時は
そういう頭になっているので
すべてのことが
お坊さんの修行になってくる
わけです。
反対に、
一発を狙うというか
楽して得したいと思うか
そういう頭になって来ることの
恐さでしょう
そのことを無表業というのでしょう
誤魔化そうと思って
やっていることはないのです
ところが、
効率化とか標準化というなかで
知らず知らずのうちに
心の中は
形さえ同じであればいいだろうと
中の品質より
さしあたり似たようなもので
作ればその方が効率がいい
何も知らずに
ただ、効率よくそこそこのもので
あればという
無表業の心が
いつのまにか浸透していき
ついには表にあらわれる
表業となって
製品を作ることに表れてくる
そこが一番恐いところです。
日本人の一番素晴らしい
誤魔化さないウソをつかない
本物を作るということが
どこかで歪を生み出してきている
ような気がしてなりません。
目に見える形にとらわれる
表業ということだけに
中心を置くとどこかで
しずかに歪んでくるようです
目に見えない
無表業の大切さを忘れてくると
最初のうちは何とか
つくろうのですが、次第に
大きな間違いをするようになてくる
のではないでしょうか。
「不良品ゼロ+不良品ゼロ=
信頼無限大」
「不良品ゼロ+不良品1=
信頼ゼロ」
と、諏訪さんはおっしゃっています
一つぐらいいいのでは
と思うのですが、
一つぐらいという心が
やがて大きな間違いという表業に
なってあらわれてくるのです。
最後に諏訪さんは
「努力不足の製品を人前に出す
ものは、いずれ淘汰される」
という先代の言葉を胸にきざんで
日々励んでおられるという事です。
表業と無表業
表にあらわれる表業は
事実あらわれるの出来に掛けますが
その根底に持っている
無表業ということも注意深く
心しておかないと
大きな問題も起こすようです。
小寒、
これから寒さも本格的になります
20日の大寒そして2月3日の立春と
まだまだ寒さが続きます。
今日から仕事始めのところもあり
色々と「初」ということも
あるのではないでしょうか。
2週間ほど鈍っていた身体を
ゆっくりとほぐしました。
初ヨーガということもあってか
全員集合でした。
書き初めや仕事始めと
段々と普通の日常へと戻って
行くようです。
新年を迎え
心新たに新しいことへの挑戦と
気持ちを引き締めていかなければ
いけません。
新という字も初めという字も
始まりという字も
同じ意味合いのようで
微妙なニュアンスの違いも
あるようです。
「新」という字は
斧で切りそろえるということが
語源のようです
「初」は衣と刀で出来ていて
生地を裁断して着物を作ることから
はじめるという意味が出てきた
ということです。
「始」はおんな篇がついています
はじまりは女から生まれる
生のはじめ、ということで
広くすべてのはじまり
ということになったとか
※やはり始まりは女性か
妙に納得!!
ところがお経に出て来るのは
「初」ということが多いようです
初発心、はじめて志を起こす
初歓喜地、修行の出発は歓喜です
歓喜心があるから求道心が生まれ
道を歩むことができる。
「新」ということも
新発意(しんぼっち)と
初めて得度する人をいいます。
初発心と同じ意味です。
「始」は
無始無終というように
使いますが、
人間の迷いには始めが無く
終りがある、
そしてさとりには始めがあって
終りがない、
という具合に使います。
新しい年に発心を起こし
人生の始めを見つけて
終生修行に励みたいものです。
お経の最初の文句は
「如是我聞」で始まります。
普通は「にょぜがもん」と読み
お経によっては「じょうしがぶん」
とも読みます。
普通には私はこのように聞きました
という意味ですが、
「如是我聞」の「我」とは
誰のことだろうと、
お釈迦さまからお説教を
聞いていた人たちと、
複数と思っていたのですが、
この「我」とは阿難尊者アーナンダ
のことを指しているようです。
お釈迦さまが涅槃に入られ
荼毘に附され、
このままではお釈迦さまの教えが
途絶えてしまう、
ということで、
「結集」(けつじゅう)といって
みなで集まり
お釈迦さまの教えを聞いたことを
思い出しながらまとめたのですが
どうも断片的で普遍性がない
そこで阿難尊者が私はこのように
聞いていますと、
聞いたことを話して
お経が出来上がっていった
ということです。
阿難尊者は
お釈迦さまに最後まで寄り添い
最期を看取られたのですが
余りにも身近にいすぎて
最後まで
さとりを開くことができなかった
といわれています。
如是我聞、と
サンスクリットから翻訳
されたのですが、
インドのサンスクリットは
とても厳密な言葉で
厳密過ぎたのでしょう今では
使われなくなってしまいました。
普通は名詞は変化しないのですが
サンスクリットは8格に変化します
主語になったり目的語になったり、
だから面倒くさいし難しい
しかし厳密といえます。
「如是我聞」の我は
主格ではなく
instrumental、具格という
~によって、ということで
ここに阿難尊者の謙虚さというか
自分を出してないのです。
自分が自分が我を張れば
いやそうじゃない
自分はこうだと
まとまらなかったと思うのです
阿難尊者は謙虚に
私によってこのように
お釈迦さまの話をこう聞いて
いますと述べられたのですね。
お経の流れでもう一つ
面白いのは
お釈迦さまが説法された場所です
普通には清らかなお浄土で
と思うのですが
欲界の他化自在天王宮中に於いて
と出てきます。
損得勘定の欲の世界で説かれた
ということが不思議なところです
弘法大師も静かに瞑想する所は
高野山で
その実践の場としては都の中心
東寺とされたのでしょう。
そして、学校の『綜芸種智院』も
東寺の隣に建設されました。
学校という場
環境のいい、見晴らしもいい
美しい山とかでは
却って勉強しないのかもしれません
市中にあって、
しかもそこを遮断のために塀を作り
世の中の雑踏から隔離する
そこに大きな意味があるようです。
お経の中に
「涅槃できる力はあるけど
涅槃せず、
かといって世間に住する
わけでもない」
というくだりがありますが、
学校も世間にあって流されず
世の穢れに染まず
本当の道を求めると
そういうことが
大事ではなかろうかと思うのです。
お経も欲界の天の世界に於いて
説かれたということも
大切な意味があるようです。
そして、
お経の最後は
「善きかな! 善きかな!」
『善哉善哉』(せんざいせんざい)
という句で終わります。
阿難尊者の聞いてこられた教えに
みなが賛同し、
間違いない間違いない、と
頷いてお経は終わっています。
あらためて見るお経の構成も
興味深く面白いものです。
朝から冷え込みました。
お正月は穏やかな天気だったのに
3日の今日は冷たい朝。
近鉄沿線の土手には
この寒さに震えながらも
水仙が美しく咲いています。
寒さには似合う花です
思い出すのは
8日より始まる
御七日御修法(ごしちにちみしほ)
です。
この時の花は梅と水仙
とてもシンプルな装いです。
後には秋の薄が枯れた姿を
保っています。
周りのオシロイバナも枯れ
この土手にも四季折々
入れ替わりながら時花を咲かせ
楽しませてくれます。
そのそばを近鉄特急が通り過ぎ
ふと北の空を見ると
たぶん雪雲でしょうか
真っ黒い雲が広がっています
京都市内は雪かも知れません。
寒さに震えてる、というより
寒さを楽しむかのように
凛として気高く咲いているようにも
見えてきます。
やはり寒いのです
3時ごろからは突然
霰が降り始めました。
道の端には積もりそうな気配ですが
あまり永続きもせず
霰は止んでしまいました。
名前は分かりませんが
この寒さの中美しい緑の葉を
広げています。
寒さでも元気な植物もいます
我が家のシクラメンも
咲き始めました。
我が家のシクラメンは
手入れもしないので葉がとても立派
まあ、葉の美しさを愛でています
暮れに買った
ハボタンとシクラメンの寄せ植え
小さいながら元気に花開いています
正月らしいといえば
正月らしい寒さになりました
この寒さは
身を引き締めてくれるような
一年の始まりには
相応しいかもしれません。
正月やって来た孫たち
一年一年それぞれの個性が
際立ってくるようです。
誰かの歌に
「ナンバーoneになるより
オンリーワンになればいい」
という歌詞がりましたが
本当にそうだと思います。
お釈迦さまがお生まれになった時
七歩歩まれて、
天と地を指さし、
「天上天下・唯我独尊」
と声高らかに名乗りを上げられたと
お経には伝えられています。
自分が一番偉いのではない
自分が一番尊いのだと、
人と比べることなく
だれ一人とっても
この世で代わるべき存在はない
という、人としての尊厳性を
いっておられるのです。
個性ということも
ペルソナ(persona)という言葉の
仮面がもとになり、
人とか人格という言葉が生まれ
パーソン(person)となり
パーソナリティーという言葉でてきた
ということのようで、
パーソンという言葉には
仮面→役柄→人
というように意味も変化してきた
ようです。
親から受け継いだ小さな個性の種に
周りの環境や接する人たちによって
その人の持っているものに
色づきされてゆき
段々と、
自分の役柄を演じていくのでしょう
そして
その人という誰にも代えられない
個性が育っていくのでしょう。
先祖代々受け継いで
同じものを持ちながら
心境妙会(しんきょうみょうえ)
心と環境は切っても切り離せない
という境遇によって
独自の個性を光らせて
いくのでしょう。
この世に出て来て
たった2年や4年でその萌芽が
芽生え始めているのです。
もっといえば
それは人類が生まれる以前からの
持って生まれたものかもしれません。
「闇の夜に
鳴かぬカラスの声きけば
生れぬ先の父ぞ恋しき」
という歌もあります。
確か一休禅師の歌ともきいています
何とも矛盾した歌ですが
何回も聞いているうちに
腑に落ちることがあるようです。
頭で考えても
わからないと思いますが、
何かの時に、ハッと閃くことが
あるようです。
それぞれの個性
仲良いときもあれば
ぶつかりあう時もある
そうやって
それぞれの個性を磨いていく
のでしょう。
実におもしろいものです。
平成30年元旦は穏やかに晴れました
温かく絶好の初詣で日和です。
新春のお花が活けられました
両脇に伸びる松の清々しさは
見ていて気持のいいものです
そして末広がりの扇も
芽出度さを醸し出します
水引も入り
お正月気分です
しかし、
中心のユリがまだ固く
開きそうにありません
急遽手直しで
ハボタンが据えられました
なお一層、豪華になったようです
日々新ということですけど
特に新年は歳が変わるということで
気持ちも新たに
今年の願いを込め、夢と希望を以て
取り組みたいものです。
新しいという字も
調べて見ると成り立ちも面白い
おのづくり(斤)の部になり
「新」は、辛と木とから出来て
それに斤(おの)が加わった
「己で木を切りそろえる」
というのがもともとの意味
そこから、「あらた・あたらしい」
という意味が出てきた。
まあ、ほったらかしにしておいた
私たちの煩悩が伸び放題になった
それを切りそろえ
あたらしい気持ちで臨む
というような意味にもなるのでは
ないかと思います。
今年は戌年
神社の狛犬さんも
とても気合が入っているようです。
今年もどうぞよろしくお願いします