本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

聞くという発信力

2018-01-07 21:10:01 | 住職の活動日記

お経の始まりは「如是我聞」

仏道修行は「聞・思・修」

といいますように、

聞くということがすべての始まり

ではないでしょうか。

 

いよいよNHKの大河ドラマ

「西郷どん」が始まりました。

その中で、

西郷さんが幼い頃島津斉彬と出会う

剣が使えなくなった腕を悩み告白する

すると、

「これからの武士は真に民の声を聞く

それが本当の侍」と聞かされます。

 

剣術の時代は終わる

いかに民の声を聞くことができる人

が国を治めていくということでしょう。

 

聞くというと受動的に思いますが

本当に積極的に聞く力を持たないと

なにもできないと思います。

 

よく三浦先生からは

身体中を耳にして聞きなさい!

己を空しゅうしてきくのです。

自分の感情を入れずに

相手のいうことを素直に聞きなさい

ということをいわれました。

 

言われてみると

私たちが聞く場合は

自分にとって都合が良いか悪いかで

判断して取捨選択して

聞いているようです。

そのことはとても難しく

どうしても好き嫌いで

聞いてしまいます。

 

仏道修行は聞思修といわれるか

よく聞いて、そして自分で考え

それから実践する

実践すると必ずわからない点とか

聞いたことと違うことが出て来ます

そこでさらに聞き直すのです。

 

ある面からいうと

修行というと滝に打たれたり

断食をしたりと

目に見えることが注目されますが

それはその人の自我を増上させる

ことにもなりかねません。

 

聞くということは

どこまでも自分を失くして

相手の立場に立って聞く

ということなのです。

そこが一番嫌なところですし、

聞くという修行が一番つらい

ところでもあります。

人から褒められる修行は

自慢げにできるのですが

自我を消し去るという修行が

一番厳しいのです。

 

しかし、

なぜ聞くという修行を一番初めに

もってくるかというと

煩悩を対治するには

お釈迦さまもおっしゃったように

苦行という断食や滝行では

対治できないのです。

 

私たちの本当の心には

撥水コートのような膜が

かかっているのです

ですから、

ちょっといい話を聞いた位では

その時はそうかと思いますが

すぐに弾き飛ばしてしまうのです

 

本当の仏の種は

お経には

煩悩だらけの人間の心に

小さな種がくっ付いている

というように表現されています。

 

だからその種を芽生えさすには

繰り返し繰り返し

本当の話を聞くしかないのです。

聞いていくうちに

その撥水コートが破れてくる

そうすると

本当の話が耳に届くように

なってくるのではないでしょうか。

 

悩みを持った方には

お説教は意味ありません

ただ真摯に聞くしかないのです

繰り返し聞いていくうちに

自然と心も整理され

問題は自分にあったと

そこが見つかれば

自然に悩みも融けていくようです

 

子供さんも

本当はお母さんに話したい

けれども、

お母さんは忙しい

その話はあとでね!

となかなか聞いてくれません

けど本当は聞いて欲しいのです。

 

言うという教育よりも

聞くという耳を育てることが

大切なことのように思います。

 

お説教ではなく

ほんとうに聞くという発信力

あの人には何でも話せる

というその人の存在力が

これからは大事になってくると

思うのです。

 

本当に聞くという発信力です!

 

 

 

 

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