本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

永遠回帰・永劫回帰

2018-01-20 20:21:37 | 十地経

十地経の講義で、このところ

「永遠回帰」

ということが出てきます。

ニーチェの言葉なのですが

私はニーチェは読んだことがなく

詳しくは分かりません。

 

ただ、

修行の道程は永遠である

しかし、

私たちの身は有限である

普通に考えると

長い小僧時代どこまでこの修行

が続くのか、

草刈り高校の便所掃除、ご飯の支度

衣着ることには程遠く

ひたすら下座行と、

耐えられないと思うこともしばしば

しかし、

まだまだやるべきことは無限にある

身は限りがある

どこまでやったらいいのか??

そうい思いが出てきます。

 

永遠に回帰するのだと、

元に戻っていく

今ごろになってやっと

繰り返すことの大事さが

解るのですが

その頃は

衣着てお経読むのは立派で

掃除するのは誰でもやる

下働きと思っていたのです。

 

読んでいくと

「十地経講義」の中に

こういうこともでてきます。

 

「人間が仏になるということは

なんであるか、というと

それは

その他のものに

なっていくのではない。

根元に帰っていく

本来の自分に、

そのとき

本来の自己に帰るためには

本来の自己でない自己というものが

そこになければならん。

それは過失、欠点です。

『十地経』という経典は

そういう運動が繰り返されている。」

 

ということなのです。

修行という道程も直線的ではなく

ただ修行するのでもなく

自分の過失、間違いが見つかる

その対治が修行なのです。

それは

もうこれでいいということはない

一つの過失を対治すれば

また新たな問題が起ってくる。

 

そういうことからすると

永遠回帰ということも

修行の道程ということにおいては

繰り返し繰り返し

永遠に本来の自分に帰っていく

ということになるのではないかと

思うのです。

 

耐えがたい修行ではなく

本来の自分に戻るためには

何回も繰り返す

そして明るく取り組める修行

ということになるようです。

 

でも、

なかなかその当時は思えない

ものなのです。

 

そしてまた、

自分が何を求めているかも

大きな要素です。

立派な美しい衣が着たい!

という人には辛い修行でしょう

本当の人とは何か、が問題

という人にとっては

自分の過失が見つかるということは

また新しい修行にチャレンジしよう

という意欲につながってくるのです

 

「願わくば

  我に七難八苦を与えたまえ」

と三日月に祈った山中鹿介の逸話は

有名ですが、

尼子家再興のためにはどんな苦労も

厭わない

あえて、

喜んで七難八苦を引き受けよう

という覚悟が生まれたのでしょう。

 

目的がはっきりしていれば

苦労は苦労でなくなり

喜びにも変っていくものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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