本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

大いなる愚かさ

2018-01-23 19:47:50 | 十地経

「馬鹿」ということも

どうも仏教から出ているような

馬と鹿と書いてバカ

よく見ると人を馬鹿にしている

ようにも思えます。

しかし、

経典の中では見たことがありません

気になって調べてみると

サンスクリットの「バカ」という

言葉の音写で

馬・鹿というのは当て字だと、

 

パーリー語ではmoha(モーハ)

サンスクリットではmogha

この言葉が語源のようです。

 

mohaという項目を見てみると

stupidity(愚かさ、愚鈍)

delusion(間違った信念)

infatuation(のぼせあがり)

というような意味が出てきます。

 

仏教辞典にもない所をみると

その意味を知りつつ

あえて訳さずに隠語として

仲間内で使っていたようです。

ところが、

おろかでも「愚」となると

大愚良寛ということもあります

大いなる愚かさという

 

物事を成すには

ある意味愚かにならなければ

出来ないことがあります。

儲かるならやろう!

儲からなければやめとこう!

という算盤をはじいていたのでは

何もできません。

出来る、出来ないを超えて

やるときにはやるという

覚悟がなければ何事も成すことは

出来ないでしょう。

 

三浦先生のご生涯を見ていても

ある意味、大愚俊良といえると

思うのです。

洛南高校再建ということも

理屈で考えたら出来るわけ

ありません。

出来るできないを越えて

やむにやまれず

せずにはおれなかった

ということでしょう。

 

ある先生が

身を捨てて浮かぶ瀬もあれ

ということもありますが

そうではなく

身を捨てずに何ができますか

とおっしゃいました。

その言葉を深く受け止め

悩みながらの実践だったようです

 

そのようなことを

「十地経講義」のなかでは

 

仏道というものが到達し得る

見込みがあるというわけでもない

見込みがないならやめとこうと

そんな馬鹿な話はない

見込みがあるならやるけれども

見込みがないからやめとこう

というようなものじゃないですね

なければ一層やらんならん

というようなものです。

 

とあります。

賢さだけが強調される現代ですが

愚かさということも

大切ではないかと思います。

それも大いなる愚かさ

自分の算盤を外すような愚かさ

大愚良寛

愚禿釈親鸞

愚かということを

名乗れるということは

しっかりと自分自身ということを

見つめることができたからでしょう

 

大いなる、ということはマハー

愚かということはモハー

maha・moha

一文字違いでこんなに違うとは

面白いようで

意味深げのようですね。

 

 

 

 

 

 

コメント
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