本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

ぽかぽか …  !

2016-03-17 15:50:17 | 住職の活動日記

やっと春めいてきて

今日は21℃まで上がりました。

これで一気に桜も膨らみ出すでしょう。

 

   

 

ひと足早く、平野神社では

「ももさくら」という桜が満開、

 

  

 

可愛い花をいっぱいにつけています。

しかし、

 

  

 

桜はまだつぼみ、

 

    

 

これからの日和を待ちわびるようで

一気に花芽を膨らませていくことでしょう。

 

先日の東福寺には

桜は一本もありません。

大涅槃図を描いた明兆

完成が1408年、56歳の頃

この涅槃図を見た時の将軍

足利義持、たいそう喜び

明兆に褒美をとらせる、と

ところが明兆は、

褒美は要らない、

その代り

境内の桜を全部切って欲しい、

桜は見に来る人も浮かれて

坐禅の邪魔になると、

静かに瞑想するには

桜は要らないと言ったのです。

 

ということもあって、

東福寺には桜はないということです。

今は、

どこのお寺も桜が有名で

一つの観光名所になっている

それを、座禅の邪魔になる

といって全部切ってしまったという

そのこともすごいことです。

本当のお寺のあり方を

ズバリ言い得ているようです。

 

ふと気がつくと、

 

    

 

わが家のアマリリスも

日々成長を続け、

 

   

 

横に出てきたふくらみ

これが花芽なのでしょうか??

葉の間から出てくるものと

思っていたのですが、

なんと横からニョッキリと顔を出しました。

日々観察 

楽しいものです。    

 

 

 

 

 

 

      

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勝ち負け!

2016-03-16 17:27:18 | 住職の活動日記

「2位ではいけないのですか!?」

と言った方もいらっしゃいましたが、

やはり勝負の世界では、

1位と2位とでは雲泥の差があります。

 

サッカーでも優勝したチームと

準優勝のチームとでは

その喜び方に大きな違いがあります。

片や優勝トロフィーを掲げて

紙吹雪を浴び、

準優勝と言えども素晴らしいのですが

横で優勝したチームを見守る

これほど

悔しいことはないと思います。

 

ということはわかるのですが、

シャラポワさんあなたまでもか

と、ドーピング問題は

スポーツ界を震撼させています。

 

勝つ、

ということは大切なことなのですが

先日も女子マラソン、

わずか1秒差で1位2位が決まる。

 

またづ脳の世界では、

とうとう

人口頭脳が人間を破りました。

囲碁の世界ではコンピューターは

まだまだと思われていたのですが

今度の人工頭脳が凄いところは

人間がプログラムする

ということではなく、

人工頭脳自身が自分で勉強して

いろいろな手を覚えていくという、

人間が一矢報いたものの

4勝1敗で

人工頭脳に負けてしまいました。

 

一体人間とは??

ここまで人工頭脳が発達してくると

人間とロボットとの違いは

どこにでてくるのだろうか??

もう数十年もしたら

人間の頭脳をを上まってくる

ロボットが出現してくるでしょう。

 

日本には古来

「道」という考え方があります。

剣道、柔道、弓道、茶道、華道

また政治は政道、

お医者さまは医道と、

私たちは仏道を歩めと、

道ということにおいて人間を

とらえたのです。

「衣食のうちに道心を起せ」

という言葉もあります。

 

外国の方が弓道の上段試験を

受けに見えられた。

もう何度も足を運ばれているのですが

やはり上にあがれない。

的には当たるけれども

進級できない。

やはり、姿勢もさることながら

その心のうちまで評価される。

その方はそこに魅力を

感じておられるようですが、

 

ここが普通のスポーツと違う

勝てばいいというものではない、

そのスポーツを通して

どこまで自分を克服できたか、

そこが「道」というものでしょう。

 

自分を克服できれば

人に対する思いやりも出てくる

自分をあとに、

人を先に譲ることができる

そして、自分を犠牲に出来る

人のために尽くすことができる

人の喜びを見て

自分の喜びと感じる

そこに道を修めていくということの

大きな意味があると思います。

 

「勝」という字は

お経の中にもよく出てきます。

その場合は、

勝ち負けの勝ちではなく、

「すぐれた」

という意味で使われます。

「最勝」 最も勝れたる

世俗諦・勝義諦

世の中の知恵に対して

仏教の方が勝れた智慧と

そのようにいたるところに

この「勝」という言葉は

出てきます。

 

祖父に教えられたことは

「負けるが勝ちぞ!」

人を言い負かして

勝ってはいけない、

勝ち負けでいえば、

自分の煩悩は打ち勝って

人に対しては負けていく

子ども心に悔しい思いでした

それがへなちょこな自分に

なったのかもしれませんが、

それはそれでいいのかも??

 

勝負の世界では

勝つ事は大事です。

しかし、何をしてもいいという

そこのところはよく考えなければ

いけないところではないかと

思っています。

 

 

 

 

 

 

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東福寺涅槃会

2016-03-15 21:23:18 | 住職の活動日記

3月15日、新暦での涅槃会です。

 

  

 

本堂には天井から吊られた

6メーターはあろうかという大涅槃図

ここの涅槃図は珍しく猫が描いてあります。

作者の明兆(みんちょう)が

涅槃図を描いていると裏山から

猫が現れくわえていた絵の具を

明兆に献上した。

そのお礼に猫を描きくわえた

ということのようです。

 

この時期でしょうか

珍しく三門の上まで上がれます。

 

  

 

横に三つ扉があるので三門と、

本当は空・無想・無願という三つの

門をくぐって仏さまの前へ行く

縦に並んでいたのが始まりで

それが場所をとるせいか

横に三つ扉を並べ三門としたのです。

 

東福寺も面白い形で

横の門から入りそこを90度曲がり

この蓮池を渡って三門をくぐる

というような構成です。

 

急な階段をよじ登り、

三門の中には

見事な絵が描かれています。

この絵も明朝が描かれたそうで、

迦陵頻伽や共命鳥が描かれ、

宝冠をかぶった釈迦如来を中心に

両脇には十六羅漢の仏像が

並んでいます。

 

道を求めて修行の旅にでられた

善財童子、53人の師を求めて

最後にたどり着いたのが

最初の師匠であったという物語

そこから東海道65次の話が

生まれたのです。

その善財童子は南の方を

指さしている。

そこから指南という言葉も

生まれたと、説明しておられました。

 

また共命鳥の話も

身体は一つで頭が二つ、

共にとてもいい声で鳴くので、

片方の頭が

もう片方がいなかったら

自分はもっと素晴らしく鳴けて

人から良く思われるのではないかと

片方の頭に毒を飲ませたのです。

すると自分も一緒に死んでしまった。

という話があります。

だから自分が輝くには

他を輝かせなければいけない、

とそのような説明もされていました。

 

なかなか、見事な説明で

思わず拍手が起こっていました。

 

    

 

眼下には本堂を拝めます。

 

下りるのもまた大変で

手すりを頼りに …

 

      

 

三門を真横から見ると

美しい柱の線が見事です。

 

    

 

まだ梅も咲いていて、

 

   

 

本堂を借景になかなか  

天気も良くていいお参りができました。

 

 

 

 

 

 

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百獣の王ライオン おまえもか??

2016-03-14 20:50:40 | 住職の活動日記

百獣の王「ライオン」

見事なたてがみ、堂々とした風格、

ということもあってか、

お釈迦さまの説法を「獅子吼」といって

ライオンが吠える、

というように喩えます。

 

お釈迦さまが悟りを開かれた時

無上甚深微妙法、といって

この上なく深く、微妙で微かである

といわれているように

たぶん欲深く忙しい人には

分からないだろうと、

それで教えを説くのを止めよう

と思われたのですが、

そこに梵天が教えを請うのです。

 

人びとが理解できるできないを

超えて教えを説こうと

そのお釈迦さまの声はどこまでも

届き人々の心に沁み渡った

というところから

「獅子吼」と喩えられたのでしょう。

 

先日の京都新聞、

京都動物園のライオン「ナイル君」

が22歳になったということです。

一緒に暮らしている雌の「クリスさん」

ととても仲良しだそうです。

野生での寿命は10~16年、

環境が良かったのでナイル君

22歳の高齢を迎えているのです。

私たちと同じように足腰に

衰えがみられる。

しかし食欲だけは旺盛とか

ここも私たちと同じ、

アフリカ育ちのライオンにとって

寒さが一番堪えると、

なによりの特等席は床暖と

日当たりのいい枯草のベッド、

その占有権は「クリスさん」に

あるようで、「ナイル君」は

「クリスさん」のご機嫌を見ながら

隣りに寝たり、空いてる方を

選んだりしているとか、

是非その様子を見に行かなくては!!

 

アリの研究をしている方、

働きアリ  の中に

働かないアリがいる  

よく観察すると、

寝そべったり身づくろいをしたり

一向に働くけはいがない、

そこで、働かないアリを除いて

働くアリばかりにすると

その中からまた働かないアリが

でてくるとか、

研究されてる方が出した結論は

この働かないアリは緊急時に備えて

待機しているということです。

全部働きアリばかりですと

疲れて動けなくなった時

巣自体の存亡にかかわるから

ということのようです。

なによりも驚いたのは

この巣の中は女王アリを中心に

雌のアリばかりで構成されている

ということのようです。

(オスの居り場は??)

産卵のときだけに必要で

そのあとはいなくなる??

なんともかなしいような

 

今は男性中心の世界のようですが

古い時代も「卑弥呼」がいて

「推古天皇」が最初の女帝で

そのあとも、「皇極」「斉明」と

女性の天皇がたくさん出ておられます。

女性中心のほうがうまくいくのかも

 

しかし、仏さまの願いに

「変成男子の願」という

すべて男性に変えてしまうという

そういう願いがあるのです。

これは歴史的なことがあるようで

昔のインドでは女性の地位が低く

女性は仏に成れないという

ことがあったようで、

すべての女性を救うという考えから

変成男子(へんじょうだんし)とうことが

いわれたようです。

 

「おなごをば 法の御蔵というぞ

釈迦も達磨もひょいひょいと生む」

と、一休さんは詠んでおられます。

 

 

 

 

 

 

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「若」

2016-03-13 14:45:09 | フラワー

「若い」という字も面白い、

成り立ちも、桑のやわらかい

新芽が萌えいずる形

今日の花を見ていると

花器の中から新しい花が出てきて

楽しそうにお互いが見詰め合っている

そのような姿です。

 

   

 

なんとも春らしい姿です。

 

  

 

「若」という字も幅広く使われ、

読み方は(ジャク)とか(ニャク)

または(ニャ)ともいいます。

仏教の経典にもよく見かける字です。

 

一般的には、「わかい」という意味

そして、文中では「もしくは」

というような、経典にもでてきます。

何気なく見ているのですが

般若心経のハンニャのニャも

この字を書きます。

この場合は意味ではなくて、

インドの言葉を音写したのです。

プラジュニャーがパンニャーと

それを般若と漢字をあてたのです。

 

それから、「蘭若」(らんにゃ)というと

お寺という意味です。

これは阿蘭若(あらんにゃ)といって

本来は、人里離れた静かな場所

という意味で、

お坊さんが修行するのに適した所

という所からお寺の意味にまで

なったのでしょう。

お寺という言葉も、

精舎、祇園精舎のような

また、道場というよな言葉も

いろんな表現があるようです。

 

ちょっと分からないのが

『若干』(じゃっかん)です。

いくばくかという意味ですが、

干は(さからう)という意味があり、

若干は不定数をあらわすと

あります。

 

まあ、文字の成り立ちは

いろいろありますが、

こういう萌えいずるような

若い花を見ていると、

本当に春の気配を感じるものです。

 

 

 

 

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「供養とは忘れないことですね!」

2016-03-11 21:23:36 | 住職の活動日記

あれからもう5年たちます。

復興まだ半ば、

原発に至ってはまだその道筋さえ

見えていないような状態です。

あと何十年かかるやら、

報道番組や新聞を見ていると

故吉田所長の言葉が迫って来ます。

「もう東日本は壊滅する!

そこまで覚悟した。

髪の毛一本の偶然で、

その危険は回避された」

と、あらためて原発の恐ろしさを

感じました。

 

記憶をつなぐということがあります。

語り継いで伝えていく、

それには形ということも

大きな役目を果たします。

今残されている被災した建物

被害に遭われた方には辛い思いで

やはり時間をかけて

見守っていくことも大切です。

 

忘れない、

憶念不忘ということがあります。

「念」ということは仏教辞典には

すべて経験したことを

明らかに記憶して忘れないこと

とあります。

その忘れない力を

「念力」というのです。

念の反対を「失念」といいます。

よく都合の悪いことを

「失念いたしまして!」

というように使うようですが。

 

また、「念・定・慧」ともいいます。

智慧を生み出すには

まず忘れない、憶念して心に刻む

そのことによって定が生まれます。

三昧の世界に入れるのです。

その三昧の力によって

智慧が生産される。

 

「供養とは忘れないことですね」

といった方がいらっしゃいます。

辛い悲しいことも忘れない。

そして思い出す、常に思い出す

そのことが本当の供養でしょう。

 

振り返ってみると

自分にとって

楽しいことよりも辛かったこと

の方がよく覚えているようです。

その辛い悔しい悲しい

そのことがエネルギーに

なったようにも思います。

 

仏教でいう「念・定・慧」とは

やはり、聞いた教えを忘れない

いつも鮮やかに思い出す。

そして、「念・定・慧」は

「戒・定・慧」ともいいます。

戒とは戒律ですが

いろいろな規則が自分を

縛るということではなく、

自分の身の周りにある

誘惑から自分を守ってくれる

ということです。

念じて常に思い出すということは

常に自分に戒が働いている

ということです。

念ということも戒ということも

そういう意味では同じ働きがあります。

 

5年たった今でも思い出し、

そのことに事実をみつめる

ということは、

念じ続けているということは

自分を律していく手立てにもなり

その思いに自分の身を

浸すことによって

新たな次なる智慧が生まれてくる

と思います。

 

 

 

 

 

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大仏プリン

2016-03-10 20:58:06 | 住職の活動日記

まあ、なんでも面白いネーミングを

つけるものです。

奈良の「大仏さま」までも

プリンの名前になってしまいました。

 

  

 

入れものの蓋に

なんともふくよかな大仏様が

いらっしゃいます。

 

  

 

コーヒーカップも大仏さま、

 

奈良市内の郊外、やや京都より

そこにリニューアルオープン

 

  

 

こだわりがあって、

建物自体がプリンのような

そのような色合いと形に

作られています。

 

  

 

入り口もかわいい子供たちの

お出迎えです。

 

今日、テレビの放送で紹介

関西テレビ「となりの国宝さん」

そのせいでしょう

店内は込み合っています。

圧倒的に女性の方が多いようです。

 

その隙間を見つけて

わずかな時間ながら

コーヒーブレイクができました。

なかなか美味しい   ですよ

 

  

 

店内もメルヘンチックで

女性の方に人気がでそうな

そういう作りのようです。

 

※電話番号で検索すると

旧住所が出てきてとても狭い路地に

案内されます。

奈良市奈良阪町1073で調べた

方がいいようです。

 

 

 

 

    

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おそれと祈り (まじないのかたち)

2016-03-09 21:58:10 | 住職の活動日記

国立国会図書館関西館では

「おそれと祈り」

 

   

 

という題で展示会が開かれています。

近くということもあり、興味もあったので

国立国会図書館へ

 

    

 

いつもは通りすがりに

なんの建物だろう??

と思っていたのですが、

     …

とても立派な建物です。

 

   

 

正面のアプローチ、

全体がガラスの壁で作られています。

両脇にのこぎり屋根、

 

   

 

今は芝生も枯れて茶色ですが

もうすぐ緑の屋根に変わります。

 

   

 

こちらから見ると

上手に採光が取ってあるのです。

正面から見ると一面緑の芝生にしか

見えませんが、

この下が閲覧室になっています。

 

  

 

階段を下りて受付へ、

全体から見ると8階建てですが

4階部分が地下に埋まっているという

構造です。

 

  

 

中に入るにはカードを作らなければ

いけません。

 

展示会ですが、

ちょっと期待外れの面もありました。

それは私が坊主という立場から

いらぬ期待をしたのかもしれません。

この図書館の蔵書を利用して

テーマに沿って本を並べ

それを拝観者が読んでいく

というかたちです。

そのためスペースも横一列に

並んだ机に添って見ていくという

 

「まじない」ということになれば

洋の東西を問わず

お守りらしきものがあるのです。

祈りのかたちということであれば、

お札というか、

昔は起請文といって、

戦国武将たちは神仏に誓って

約束を守るということで

お札の裏に證文を書いた、

そういうものもあるので、

その面からのアプローチもあれば

面白かったのでは、

とおもうのですが、

なにせ国立図書館ともなれば

宗教性を出してはいけないのかも

疑問がのこります。

 

京都の町も、

御霊神社とかあるように

いろいろな祭りにしても

祇園祭もそうですが、

いろいろな祟りからのがれるために

鎮めるための神社をつくり

町全体にバリアーを張ったような

そういう仕掛けがあります。

 

「おそれ」というなら、

桓武天皇も醍醐天皇も

崇道天皇(早良親王)や

菅原道真の霊におびえて

神社仏閣を作っています。

 

やはり図書館という

限られたスペースでの展示となると

難しいのかもしれません。

しかし、展示資料を読んでみると

この展示会を作られた趣旨は

よくわかります。

そして膨大な資料の中から

これだけを選び出されたということは

大変なことではなかったかと

思っております。

 

時間もあったので、

「安田理深」で検索してみると

だいたいの本は蔵書していて

デジタル化もできており

少しだけ目を通してきました。

 

ゆったりとしたスペースで

無料で本を見ることができる

弁当持参であれば4階の

カフェテリアで一服できて

豪華な時間と空間を

過ごすことができるようです。

 

 

 

 

  

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「はしたて」8周年記念のメニュー

2016-03-08 17:50:58 | 住職の活動日記

天気も下り坂の様子、

それもあってか生暖かい

 

      

 

図書館へ返却に行くと

木蓮が咲き始めています。

 

    

 

木蓮、正確には「ハクモクレン」

(白木蓮)というようです。

 

   

 

ちょうど季節の時間通りに

咲き始めています。

 

お釈迦さまの十大弟子のひとり

神通第一が目連尊者、

そのことも重なって

なんとなく気になる木です。

しかし、目連尊者の場合は

生まれたところがモッガラーナ

という地名からのようです。

 

木蓮、

地球上で最古の花木のようで 

とすれば、恐竜たちも

食べていたということです。

面白いことに、

木蓮の蕾は必ず北を向く、

そこからコンパスフラワーとも呼ばれ

道に迷った時には  

この花の咲く方向で方角を

知ったということです。

 

ということで、本を返却して

ランチへ

JR京都駅3階にある「スバコ」

そこに「はしたて」があります。

熊本にいるときは京都へ来たら

ここか伊勢丹の上にある「和久傳」へ

お邪魔してたのですが、

京都へ来てからはいつでも行ける

ということでご無沙汰していました。

 

  

 

8周年の記念のランチが出たということで

海老天丼と蛤煮麺、

蛤の美味しい出汁、若布と新キャベツ

天丼には春の苦味というか

蕗の新芽も入れてあるようです。

その苦味もアクセントで食をそそります。

 

今はネットや口コミで順番待つのが

大変な賑いようです。

身近なところでリーズナブルに

料亭和久傳の味が楽しめる

というところが人気の秘密

なのではないでしょうか。

 

しかし、本当の味を楽しむなら

せめて、伊勢丹の上の京都和久傳

に行かなければ …

次回はまた、京都和久傳の

味が恋しくなりました。

 

 

 

 

 

 

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瘧 (おこり)

2016-03-07 18:36:36 | 漢字

「瘧」

この字もめったにお目にかからない、

「おこり」と読み、

今でいうマラリヤ、

間歇熱ともいわれ、

一日に一回とか隔日に熱が出て

という病気です。

 

1481年(文明13年)

11月21日午前6時

一休さんは座禅してまま眠るように

静かに亡くなられました。

御年88歳。

晩年「瘧」の熱に悩まされた

ということです。

 

『一休』という本を読み終わって

あらためて一休の壮絶なる生き方に

深い感動を覚えます。

単なるとんち話の一休ではなく、

既成概念と戦った

真の仏教を求めた方なのです。

 

師匠から免許状を頂くも

それを破り捨て、火にくべた

弟子たちは密かにそれを持ち去り

大切にしまっておいたのですが、

それを見つけるや

烈火のごとく叱りつけ

また焼き捨ててしまったと、

 

それに対し兄弟子は

体制の上手にのっかて

大徳寺の住持にもなり

免許状をを乱発する

そのことに対しても痛烈に

避難しています。

 

「さとり」というとは

人が認めたものでなく、

自分が自分で頷くということでしょう。

いくら人が認めたからといって

自分自身がそのことに

納得していなければ、

無意味なことでしょう。

 

お釈迦さまが悟りを開かれた時

最初に説法されたのは

やはり5人の比丘といわれる

自分のことをずっと見守り続けた

人たちです。

苦行をやめた時、

5人の比丘は堕落したと思い、

お釈迦さまのもとを去って行きます。

しかし、お釈迦さまはこの5人に

最初に教えを説こうと

思われたのです。

5人の比丘は口裏を合わせ

もうお釈迦さまには口きくまい

と決めていたのですが、

お釈迦さまの姿を見るなり

その威厳に打たれて

素直に耳を傾けた、

ということがお経に出てきます。

 

さとりとかいうものは

ことばとか理論とかになるのでなく

顔に出るといいます。

仏像を見るとお姿の後ろに

光背という光を背負っておられます。

光顔巍々、

ということがります。

さとりとは滲み出てくるもので

免許状をもらったからといって

さとりを開いたというわけでは

ありません。

 

一休さんといえば

とんちで有名ですが、

その詩を作る才能はずば抜けていて

若いころからその才能は

誰しもが認めていたようです。

人から見れば「狂風」ともいわれ

そのあり方は常識を逸した

それは「生きる」ということを

真剣に見つめなさい、

という警告のようです。

 

晩年勅命により

大徳寺の住持になるように

沙汰が下りるのですが、

随分悩まれた末、引き受けられ

しかし、自分の住まいの酬恩庵に

住まいして、

大徳寺には住まわれなかった

ということです。

 

お寺の堕落を見て、

また時代は応仁の乱もあり

世情は荒れ果てている、

どこもここも本当のものがない

そんななか、

傍から見れば狂風と映った

しかし、真実を求め続けて

生き抜かれた

一休の生き様は見事なものだと

感じ入りました。

 

 

 

 

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