「瘧」
この字もめったにお目にかからない、
「おこり」と読み、
今でいうマラリヤ、
間歇熱ともいわれ、
一日に一回とか隔日に熱が出て
という病気です。
1481年(文明13年)
11月21日午前6時
一休さんは座禅してまま眠るように
静かに亡くなられました。
御年88歳。
晩年「瘧」の熱に悩まされた
ということです。
『一休』という本を読み終わって
あらためて一休の壮絶なる生き方に
深い感動を覚えます。
単なるとんち話の一休ではなく、
既成概念と戦った
真の仏教を求めた方なのです。
師匠から免許状を頂くも
それを破り捨て、火にくべた
弟子たちは密かにそれを持ち去り
大切にしまっておいたのですが、
それを見つけるや
烈火のごとく叱りつけ
また焼き捨ててしまったと、
それに対し兄弟子は
体制の上手にのっかて
大徳寺の住持にもなり
免許状をを乱発する
そのことに対しても痛烈に
避難しています。
「さとり」というとは
人が認めたものでなく、
自分が自分で頷くということでしょう。
いくら人が認めたからといって
自分自身がそのことに
納得していなければ、
無意味なことでしょう。
お釈迦さまが悟りを開かれた時
最初に説法されたのは
やはり5人の比丘といわれる
自分のことをずっと見守り続けた
人たちです。
苦行をやめた時、
5人の比丘は堕落したと思い、
お釈迦さまのもとを去って行きます。
しかし、お釈迦さまはこの5人に
最初に教えを説こうと
思われたのです。
5人の比丘は口裏を合わせ
もうお釈迦さまには口きくまい
と決めていたのですが、
お釈迦さまの姿を見るなり
その威厳に打たれて
素直に耳を傾けた、
ということがお経に出てきます。
さとりとかいうものは
ことばとか理論とかになるのでなく
顔に出るといいます。
仏像を見るとお姿の後ろに
光背という光を背負っておられます。
光顔巍々、
ということがります。
さとりとは滲み出てくるもので
免許状をもらったからといって
さとりを開いたというわけでは
ありません。
一休さんといえば
とんちで有名ですが、
その詩を作る才能はずば抜けていて
若いころからその才能は
誰しもが認めていたようです。
人から見れば「狂風」ともいわれ
そのあり方は常識を逸した
それは「生きる」ということを
真剣に見つめなさい、
という警告のようです。
晩年勅命により
大徳寺の住持になるように
沙汰が下りるのですが、
随分悩まれた末、引き受けられ
しかし、自分の住まいの酬恩庵に
住まいして、
大徳寺には住まわれなかった
ということです。
お寺の堕落を見て、
また時代は応仁の乱もあり
世情は荒れ果てている、
どこもここも本当のものがない
そんななか、
傍から見れば狂風と映った
しかし、真実を求め続けて
生き抜かれた
一休の生き様は見事なものだと
感じ入りました。
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