本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「供養とは忘れないことですね!」

2016-03-11 21:23:36 | 住職の活動日記

あれからもう5年たちます。

復興まだ半ば、

原発に至ってはまだその道筋さえ

見えていないような状態です。

あと何十年かかるやら、

報道番組や新聞を見ていると

故吉田所長の言葉が迫って来ます。

「もう東日本は壊滅する!

そこまで覚悟した。

髪の毛一本の偶然で、

その危険は回避された」

と、あらためて原発の恐ろしさを

感じました。

 

記憶をつなぐということがあります。

語り継いで伝えていく、

それには形ということも

大きな役目を果たします。

今残されている被災した建物

被害に遭われた方には辛い思いで

やはり時間をかけて

見守っていくことも大切です。

 

忘れない、

憶念不忘ということがあります。

「念」ということは仏教辞典には

すべて経験したことを

明らかに記憶して忘れないこと

とあります。

その忘れない力を

「念力」というのです。

念の反対を「失念」といいます。

よく都合の悪いことを

「失念いたしまして!」

というように使うようですが。

 

また、「念・定・慧」ともいいます。

智慧を生み出すには

まず忘れない、憶念して心に刻む

そのことによって定が生まれます。

三昧の世界に入れるのです。

その三昧の力によって

智慧が生産される。

 

「供養とは忘れないことですね」

といった方がいらっしゃいます。

辛い悲しいことも忘れない。

そして思い出す、常に思い出す

そのことが本当の供養でしょう。

 

振り返ってみると

自分にとって

楽しいことよりも辛かったこと

の方がよく覚えているようです。

その辛い悔しい悲しい

そのことがエネルギーに

なったようにも思います。

 

仏教でいう「念・定・慧」とは

やはり、聞いた教えを忘れない

いつも鮮やかに思い出す。

そして、「念・定・慧」は

「戒・定・慧」ともいいます。

戒とは戒律ですが

いろいろな規則が自分を

縛るということではなく、

自分の身の周りにある

誘惑から自分を守ってくれる

ということです。

念じて常に思い出すということは

常に自分に戒が働いている

ということです。

念ということも戒ということも

そういう意味では同じ働きがあります。

 

5年たった今でも思い出し、

そのことに事実をみつめる

ということは、

念じ続けているということは

自分を律していく手立てにもなり

その思いに自分の身を

浸すことによって

新たな次なる智慧が生まれてくる

と思います。

 

 

 

 

 

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