自我の妄執というか
「分別の妄執」「主観の妄執」
を破るという言葉も
耳に残っている言葉です。
大学生の頃に聞いた言葉なのに
強烈だったのでしょう
奥底に眠っていた言葉です。
ちょうど、
『十地経の講義』も
第七地を過ぎ第八地に入った
ところです
この講義も直線的ではなく
円環的というように
また、八地という所に立って
初地から見直されています。
初地の面目は「大願」ということ
そして、行としては布施であると
波羅蜜の行が述べられています
初地は「初歓喜地」と言うので
歓喜ということです
何が歓喜かというと
「分別の固執」を破った
ということです
歓喜、喜びというと
普通には良いことがあった
宝くじに当たるとか
何か都合のいいことがやって来た
ということのようですが
そうではなく、
長年自分でも持て余していた
自我の妄執を
破ることが出来たと
講義では、
「主観の妄執を破ればですね、
地獄に堕ちるんじゃない
真理の中に落ちていく
真理に堕ちてくれば、
初めて事実が分かる。
真理というものに裏付けられて
初めて事実の実相が分かる。
いまだ見なかったものを
見たとかですね、
長い間無意識、
本能としてですね、
求めたものを初めて
得ることができたと。
それは主観を破ることができた
だから大いに歓喜するんだと。」
というように述べておられます。
また、
布施ということが初歓喜地と
言っておられますが
難しい言葉ですが
「法界を証するというような
ことで初めて布施が成り立つ
自分のものを人に施すんじゃない
自分のものなんかというのは
ないんだと。
あらゆるものをあらゆるものに
かえしていくんだと。
だからして慈善というような
ことはないような、施し。」
自分の持てるものを
人に施すということが
布施のように思っていましたが
そうではないようです
慈善事業ということも
一歩間違うと
上下関係というか
上から目線で恵んであげる
というような優越感にも
落ちいってしまうことも
あるようです。
そこのところは
よくは分かりませんが
読み進めるうちにまたでてくる
のではないかと思います
それまでの宿題です。
学生自分に聞いた
「主観の妄執」
という言葉に再び出会い
その時の光景を思い出し
この、自我の妄執を破る
ということが大きな修行の眼目
のように思います。
この一つを取って見ても
令和2年の大きな目標のようです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます