本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

勉強会

2018-10-02 17:54:36 | 住職の活動日記

 

ある方の、なにか

話を聞きたい、 という

ことがあって始めたのですが

「勉強会」と、

しかし、今つくづく考えて見ると

これは私が勉強する会

ということになるのではないかと

月に一回というものの

この会があるために

一月間、私の頭の中は

何かしら勉強会のことが気になり

そのことが離れないということに

なっています。

皆さんのおかげで叱咤激励されている

ということなのです。

 

やはり、

自分ということが

問題になってくるのです。

こういう話は

講義とは違ってまんべんなく

誰でもが分かるというような

話しではないのです。

ある時は誰かの心に響き

誰にも響かない時もあるし

話す方と聞く方の問題意識が

ぴたっと一つになった時

成り立つのでしょう。

 

お釈迦様のお説法も

聞いている方たちが皆自分に

話して頂いていると聞いたのです

「一人がためなりけり」

ということもあります。

聞く方も自分の問題に答えて

話して下さると受け取ったのです。

 

なかなか、

そのようにはいきませんが

自分のこととして聞かなければ

何にもならいというのが

こういうはなしでしょう。

 

以前、ある会社の社員のために

お話してくださいと

引き受けたのですが、

話すたびに責任者の方は出席されず

ある時、

「こういう話は責任ある人に

 聞いて欲しいのですが … 」

と話したところ

それ以来、断られたことがあります。

 

こういう話は責任を感じる人が

聞けるのでしょう。

何も、会社とかの責任ではなく

自分は自分の責任者

ということがあります。

自分自身に責任を感じた時

何かしら聞きたくなる話でしょう。

 

たぶん、

今読んでいる『十地経講義』は

安田先生が三浦先生に向かって

話されたのではないかと思います。

安田先生が他の会場で

「私に話を聞く人はたくさんいるが

 それを実践したのは三浦君だけだ」

と話されていました。

まあ、私なりの思うところですが

洛南高校を作り上げたのは

この講義が基礎になっていると

その内容の実践が開花したのです。

 

まさに、

仏・法・僧という、

安田先生という「仏」

その説かれる十地経という「法」

それを聞いて実践された

三浦先生をはじめとする先生方

それが「僧」にあたるのです。

今から思うと

素晴らしい時代であったと

仏法僧が実践された時という

まれに見る時だったように思います。

 

どのような話であっても

聞く人が責任を感じれば

その話は刺さっていくものでは

ないかと思うのです。

(聞く人に責任を押し付ける

 わけではありませんが)

私の話しもしどろもどろですが

逆に聞いていただく方が

素晴らしいのではないかと

思っているのです。

 

どこまで続くかわかりませんが

今となっては

こういう場を頂いたということが

なによりも有り難いものだと

感じています。

 

 

 

 

 

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