今朝 「 バッタの親子 」 ( 夫婦かも ? ) を見つけました。
あじさいの葉を食べているのです。
そういえば、 「 あじさい 」 だけではなく、いろいろな葉っぱが
食べられています。
「 おまえか~! 」
と思って捕まえようと思ったのですが、
「 あじさい 」 にしてみれば、
もう、自分はいっぱいの花を咲かせ、これから寒い季節に向かって
あとは、葉を散らしていくだけなのです。
もう、はたらきが終わった 「 葉 」 を
バッタに供養しているのかもしれません。
人間は取るだけ取って、与えることを知らないようにも
思いますが … ?
と思いつつも、山茶花を見ると、これまた見事に虫に食べられてしまいました。
ここまで食べられると山茶花もかわいそう。
悩むところです。
しかし、自然界の中では 「 自然 」 ( じねん ) のままに
「 いのちのリレー 」 が受け継がれているのでしょう。
池の金魚も夜行性になってしまって、夜の餌のときにしか顔を出さないのですが、
また、二匹ほど増えているようです。
最近見かけなくなった、本蔵院のエビも、また、たくさんの数に増えております。
知らないところで、いのちが受けて継がれているようです。
私たち人間は、
「 一切のいのち 」 を 「 自分のいのち 」 として生きています。
そこには、本来的には、いのちを頂くことの大きな責務もあるのです。
それは、いのちを問うことのできない 「 いのち 」 にかわって
生きることの意味を見いだしていくということが
人間に課せられた大きな課題だと思うのです。
それが、いのちを頂くということの供養だと思います。
あじさいの葉を食べているのです。
そういえば、 「 あじさい 」 だけではなく、いろいろな葉っぱが
食べられています。
「 おまえか~! 」
と思って捕まえようと思ったのですが、
「 あじさい 」 にしてみれば、
もう、自分はいっぱいの花を咲かせ、これから寒い季節に向かって
あとは、葉を散らしていくだけなのです。
もう、はたらきが終わった 「 葉 」 を
バッタに供養しているのかもしれません。
人間は取るだけ取って、与えることを知らないようにも
思いますが … ?
と思いつつも、山茶花を見ると、これまた見事に虫に食べられてしまいました。
ここまで食べられると山茶花もかわいそう。
悩むところです。
しかし、自然界の中では 「 自然 」 ( じねん ) のままに
「 いのちのリレー 」 が受け継がれているのでしょう。
池の金魚も夜行性になってしまって、夜の餌のときにしか顔を出さないのですが、
また、二匹ほど増えているようです。
最近見かけなくなった、本蔵院のエビも、また、たくさんの数に増えております。
知らないところで、いのちが受けて継がれているようです。
私たち人間は、
「 一切のいのち 」 を 「 自分のいのち 」 として生きています。
そこには、本来的には、いのちを頂くことの大きな責務もあるのです。
それは、いのちを問うことのできない 「 いのち 」 にかわって
生きることの意味を見いだしていくということが
人間に課せられた大きな課題だと思うのです。
それが、いのちを頂くということの供養だと思います。
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