今週は『 仏のまなこ 』 『 人間のまなこ 』 ということで選びました。
同じ一つのものを見るのにも、自分本位に(自己中心的に)見てしまうのと、
そのものになりきって見るのとでは、ぜんぜん違う世界を見ているのではないか、
と思うのです。
お釈迦さまが悟りを開かれたとき、
『 奇異なる哉 奇異なる哉
山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ) 』
と叫ばれたと、聞いております。
悟ってみてみると、もうすでに、山や川、草木にいたるまで、全部仏さんではないか、
自分が一番遅かった。
自分だけが悟りを開いて、一番えらいだろう、ではなく
『 仏のまなこ 』から見てみると、世界が一転するのですね。
ただの砂粒、道端に咲いている野の花、『 これこそ仏さんではないか 』
この世の中が、光り輝く、仏の世界と見えてくるのでしょう。
これはよく、癌を宣告された方が、こういう心境になられたのを聞いた事があります。
死ということを目の前にしたとき、出会う人出会う人がいとおしく、
本当に今日が最後、という出会いは、『 命輝く 』ものでしょう。
以前にも書いたと思いますが、師匠から
『 そのままでいいんですよ 』 といわれ
『 このままでいいんですね 』 と答えると
『 いや! このままではいかん そのままでいいんだ 』
『 ? ? ? 』 (じゃー どうすればいいの)
という、頓知みたいな話がありましたが、
『 そのまま 』 というのは 仏のまなこですね
『 このまま 』 でいいと頑張るのは 人間のまなこですね。
同じものを見るのでも、チョッと立場を変えて、見るのもおもしろいですね。
「 自分を感情にいれず … 」 そのものになりきって
が、大事ですね!
しかし、ほんとうにむつかしい !
同じ一つのものを見るのにも、自分本位に(自己中心的に)見てしまうのと、
そのものになりきって見るのとでは、ぜんぜん違う世界を見ているのではないか、
と思うのです。
お釈迦さまが悟りを開かれたとき、
『 奇異なる哉 奇異なる哉
山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ) 』
と叫ばれたと、聞いております。
悟ってみてみると、もうすでに、山や川、草木にいたるまで、全部仏さんではないか、
自分が一番遅かった。
自分だけが悟りを開いて、一番えらいだろう、ではなく
『 仏のまなこ 』から見てみると、世界が一転するのですね。
ただの砂粒、道端に咲いている野の花、『 これこそ仏さんではないか 』
この世の中が、光り輝く、仏の世界と見えてくるのでしょう。
これはよく、癌を宣告された方が、こういう心境になられたのを聞いた事があります。
死ということを目の前にしたとき、出会う人出会う人がいとおしく、
本当に今日が最後、という出会いは、『 命輝く 』ものでしょう。
以前にも書いたと思いますが、師匠から
『 そのままでいいんですよ 』 といわれ
『 このままでいいんですね 』 と答えると
『 いや! このままではいかん そのままでいいんだ 』
『 ? ? ? 』 (じゃー どうすればいいの)
という、頓知みたいな話がありましたが、
『 そのまま 』 というのは 仏のまなこですね
『 このまま 』 でいいと頑張るのは 人間のまなこですね。
同じものを見るのでも、チョッと立場を変えて、見るのもおもしろいですね。
「 自分を感情にいれず … 」 そのものになりきって
が、大事ですね!
しかし、ほんとうにむつかしい !
の速さを感じる日々が続いております。これは流れのみに目を向け両岸の風景を見る余裕が無い心がそうさせているものと思います。ただ心の傷を癒すためには時の流れで傷を癒すのも一つかと思いまして・・・。傷もそろそろ癒えつつありますので、そのままの自分を受け入れる努力と音楽で人を癒し癒される時の過ごし方をこれからも見つけて生きたいものです。
(余暇でオーケストラ等でホルンを吹いています)
という、人間心理学のような、人間の迷いの構造を
分析する、そういう経典です。
そのなかの一句です。
三蔵法師(玄奘三蔵)は国禁を犯してまで何故インドへ行ったか。ただ漫然と行ったわけではなく、ある経典を求めてです。その中心に当たるお経が
『 唯識三十頌 』(ゆいしきさんじゅうじゅ)
という経典です。
三十の頌よりなる2頁ほどの大変短い経典です。
頌とは、一句が5文字からなり、それが四句のもを
一頌といいます。つまり一頌とは20文字になります。
『 恒転如暴流 』はそのなかに出てくる言葉で、
東寺にいるとき、安田先生からよく聞いた言葉です。
本当はもっと深い意味のある言葉だと思います。
安田先生が色紙にかかれる時、よくこの言葉を書いておられました。
意味はこれからもっと勉強してご報告します。
しかし、この言葉に注目された事はすごいことです。
その言葉に注目されるセンスに感動します。
三蔵法師もたくさんの経典が中国に伝わっている、
しかし、どうも最後の所がよくわからない、それで、
求めていかれたのが、唯識の中にあるこういう言葉ではないかと思います。
三蔵法師と同じ言葉に興味を持たれた、これは本当にすごいことですよね。