「 迷 」 いという字、
「 米 」 に 「 しんにょう 」 と書きます。
面白い見方をすれば、
米喰って走り回っている、
と読めるのではないでしょうか。
( 毎日忙しく飯食って走り回っている
私たちの姿とも取れます。)
本来の語源は、
目が明らかでない意の語原 ( 昧 マイ ) からきているいようです。
道に迷うという意味です。
「 迷信 」 ということが気になったのです。
道理に合わないことを信じること、とか辞書にはあります。
お経のなかでは、心に迷う、ということで
「 迷心 」 と書きます。
また、 「 迷津 」 ( めいしん ) という言葉も出てきます。
これは、迷悟の領域を渡し場 ( 津 ) に譬えて、
迷いの此の岸、即ち迷界を迷津というのです。
「 迷心 」
心が迷うのです。
我が心 わがままならぬ 我が心
我が心ほど うきものはなし
という歌もあります。
仏教にも大きく二つの流れがあります。
「 悟りの世界 」 に主眼を置くのか、
「 迷いの世界 」 に重きを置くのか、という。
今読んでいる 『 唯識 』 の立場というのは、
悟りの世界も目指すけど、迷いの世界に主眼を置いています。
なぜ悟れんかというと、
迷いということがわからないから、悟れない。
迷いということをそのままにしておいて、
悟りということは無理なんだ、
というのが唯識の立場です。
なぜかというと、
迷いを悟るんですから、
迷いなしに悟るということは成り立たないのです。
迷いの構造が非常に面倒なのです。
そのことを厳密に明らかにしていくのが
「 唯識 」 という教えなのです。
迷いを叩き壊していくという論法もあるのですが、
唯識では、迷いを迷いと知らしめるのです。
知れば叩き壊さなくても、自然に止んでいく。
知ればなくなるのを 迷い というのです。
ところが、人間妙な癖を持ってまして、
「 執着 」 という、
なんにでも執着の心を起こすのです。
自分のものと固執する。
迷いだけに固執するのではなく、
悟った心にも執着の心を起こすのです。
迷う心にも迷うけど、
悟った心にも人間は迷うという構造を持っています。
どんな良いものでも、
良いものだと固執すれば、
それはもう良いものではなくなってくる。
良いものだという考えになってしまうのです。
そこが難しい !!!
迷い道くねくね、といったところです。
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