自由ということも
色々考えされられる問題で
民主主義といえば
「自由・平等・博愛」
ということが信条です
ところが
もっと内面的にというか
自分の問題として考えると
前回の
「使命」
ということの続きですが、
「(使命)そういうものが
あるんだと思うんですね。
どうしても生きんならん
ものがある、ええ、
好き嫌いを超えて。
そういうときに
力が出てくるんじゃないか。
もうわしの自由だという、
そんなときには
何も力は出てこんでしょう。
昼寝でもできるんだから、
嫌なら。
そういうときに
何も力は入らんわね。
自由、自由といって、
何でも自由だというような
ことをいって
猿股もふんどしも
取ってしまってみなさい、
何か力は出て来はせんです
あんまり自由で。
ふんどし締めるとこに、
それが拘束やわね。
初めて力が出るわね、
自由にも。
もっと自由に
ふんどし取ったら何も
動けないわね。
力が入らんでしょう。
そういうように、
拘束されるときに
自由が動くんです。
何もかも自由だといえば、
それほどつまらんことに
なってしまう。
自由にはできんというんで。
そういうときには、
必由ということがある、
普通では自由というけど。
曇鸞大師の言葉に
必由という言葉がある。
自由、
つまり言ってみれば
不可自由だ。
自由すべからずという。
必由なんだ。
必は必然です。
必然に由る。
あるいはこういってもいい、
必然が自由なんだと。
必然と自由じゃないんだ。
必然をもって自由となすと。
せんならんものを
嫌々するんじゃない、
喜んでせんならんものを
引き受けると、
それは自由でしょ。
しかも必然でしょ。
だから必由という、
非常にいい言葉がある。」
三浦先生の幼児教育を
見ていると、
結構、拘束があるんです
はたから見れば
幼児たちに、
挨拶を教え込むのに
子供だから
ということではなく
大人と同じように
きちんとした挨拶を
教え込んでいかれます
また、
保育発表会では
まあ、子供たちには
理解できないだろうという
そういうことでも形を
教え込んでいかれます
自由表現ということではなく
これは、こう。
あれは、あれ。
というように
分かる分からないを超えて
まず形を教え込んでいく
ということです
不思議なことに
形を教え込むことによって
そこから子供たちの
それぞれの個性が
光ってくるように思います
制服も同じように
個性といって
それぞれ好きな恰好を
させるより
制服と決めた方が
それぞれの個性が
際立ってくるようです。
高校生でも卒業の時
やんちゃだった生徒たちが
一人ずつ手を握り
先生ありがとう、と
卒業していかれます
厳しかった校則のお陰で
本当の自分が表現できた
ということではないかと
思うのです。
なるべくしてなったという
そういう必然性が
本当の個性を生むし
それが本当の自由という
ことだと思います。
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