本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

エスカトロギッシュと生死巌頭に立つ

2024-09-23 20:03:49 | 十地経

言葉ということも

三つの考え方があると

聞いたことがあります。

一つには一般語としての言葉、

もう一つは専門語としての言葉、

最後は宗教語としての言葉です。

それが混同されてくると、

宗教語も一般語として解釈して

理解が深まらないことがあります。

 

例えば、

「利益」という言葉、

普通には「ゴリヤク」といって

仏様から何かいいことを頂く

お参りしていたら宝くじに当たった

とか、あそこの仏さまは

ご利益があるとか、

 

専門語としては「リエキ」です

経済の言葉として、とても重要な

意味があります。

利益を上げるということは

とても大切なことです。

利益が出ないような商いは

しないほうがいい、とも聞いた

ことがあります。

商いをする以上、利益が上がる

ということが健康なことです。

 

これが宗教語になると

それこそ「りやく」といって

仏様から頂く大切なことです。

それは私たちの考え方を否定した

内容です。

ただ、儲けたとか、

何か良い事があったとか、

というようなことではなく、

自分自身の煩悩を対治できた

克服できたという、

そして本当の自分を見つけた

ということが、本当のご利益

でしょう。

 

ですから、私たちの考え方とは

まったく正反対です。

私たちの煩悩をくすぐるような

そういうことがご利益ではない

ように思います。

 

講義に出てきた、

福音という言葉も、

神さまからの良きたよりという

godからのgoodな知らせspell

つまり、gosupel ゴスペル

ということです。

しかし、

良き知らせというのが、

私たちが考える良い事ではなく

「神の国が近づいた、

 汝ら悔い改めよ」

という意味でしょう。

やっと神の国に入れるので

今までの罪を悔い改め懺悔して

神の国に入る準備をせよ、

ということが福音という

ことなのでしょう。

(門外漢の私が言うので

 あまり信用できませんが)

 

そいうことが終末論

エスカトロギッシュということで

バルトという人が

毎日をこの世の終わりとして

生きています、

ということはそういうことを

いってるのでしょう。

 

ということは仏教では

「生死巌頭に立つ」という言葉が

あるように、

生まれてやがて死ぬのではなく

いつでも死に立って生きている

ということです。

崖っぷちに立って生きている

ということでしょう。

 

安全な所に立っていると

考えると、生がボケてしまいます

常に死を抱いて生きている。

生老病死の「生」ということが

分かりにくいのは、

そういうことのようです。

 

病気で死を宣告された人が

見舞いに来る人来る人に

もう次の出会いは

ないかもしれないと、

見舞いに来られて帰っていかれる

姿をドアを少し開けて

その姿が見えなくなるまで

拝むようにお見送りされた

ということを聞いたことが

あります。

 

一期一会ということも

そういう意味あいでしょう。

もう次の出会いはない

自分の生涯でこの出会いは

一回限りであると、

そういう意味あいを含んで

いるようです。

 

形としては、

お見送りするとき

姿が見えなくなるまで見送る。

本山にいる時、

玄関に座ってお見送りする

すると、分かっている人は

門を出る時、こちらに振り返り

もう一度礼をして失礼される。

そういう形が「一期一会」

ということでしょう。

 

何か似ているような、

しかし、キリスト教の終末論とは

もっと違った内容をもっている

のかもしれませんが、

そこには内面的な面と

神という

外からの大きな力というか

勅命みたいなものを感じます。

 

この世の終わりと考えるにしても

それを仏教では

自分の内面の問題として考えるか、

外からの神の力、命令と考えるか

大きな違いがあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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