本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

面壁九年(めんぺきくねん)

2024-10-10 19:43:27 | 十地経

西洋の方では思索するとい時

逍遥というか歩くということです。

反対に、仏教では坐(ざ)という

座るということです。

「面壁九年」という言葉も

「だるまさん」と親しみのある

達磨大師(だるまだいし)です。

嵩山の少林寺で壁に向かって9年

ついに悟りを開いたところから

この言葉が始ったようです。

9年間の間一言も発することなく

座り続けたという話しが

伝わっています。

 

「仏教の方では、坐というような

散歩や歩くのじゃなしに、

むしろ一か所に止まるという、

面壁九年というようなわけです。

ああいうようなかたちで坐、

坐禅というようにやっぱり

思索に一番ふさわしい態度と。

歩くのじゃなしに、一か所に

身をとどめて。

しかも面壁九年とはよくいった

ものです。

 

庭なんか作って、池なんか掘って、

眺めのよいような庭を作る、

そういうものではね、

思索できんのです、気が散って。

料理屋みたいなもんだ。

だから、瞑想する場合には、

壁が一番よいというんです。

それから

北向きの壁が一番ふさわしい。

南向いて、光線が入るところでは

思索できんのです。

 

けど、ここに行住坐臥という

ことが出ておってですね。

この双行分に行住坐臥という

ことが出ていてですね。

あの、必ずしも坐といっても、

その、

一か所におるというものじゃ

なしに、

一か所におるような態度をもって、

行住坐臥するというような

意味でしょう。

歩いても、やはり面壁九年の態度を失わずに歩くというようなもので

あってですね。

四六時中、三昧にある

というような。

 

だから、

道元禅師も禅宗だけれども、

行もまた禅、

坐もまた禅といってね。

坐だけが禅じゃない、

行もまた禅である。

もう行住坐臥、禅だ。

こういう具合に道元禅師もいって

おられるように、

ああいうふうな広い意味になって

くるというと、

必ずしも坐と、固定的に坐という

ことがあるわけじゃないでしょう

けれども、

坐で代表されるわけです。」

 

ここを読んでいてふと思ったのは

安田先生のご命日を

「無窓忌」といいます。

何とも意味深いというか

多くの意味を含んでいるような

分からない言葉です。

一つには、

ライプニッツのモナド、

モナドには窓がない、

そこからものがは行ったり出たり

する〈窓〉をもたない(無窓説)

ということがあります。

 

もう一つはここに出てくる

思索するには面壁九年という

思索するには窓はいらないのだ。

そういえば昔のお堂は窓が

ないように思います、

あっても飾のようなもの、

講義の中でも、

東寺の灌頂院を挙げておられます

このお堂も大きな扉はあるけど

窓はない。

護摩を焚くと堂内が煙がこもる

のですが、なにせ

大きなお堂なので

さほど苦にならないのです。

お勤めも終わり扉を開けると

朝日が差し込んできて

その光の中を護摩の煙がでていく

という景色はのは

何とも美しいものです。

壁しろという白い布で仕切られた

中でひたすら真言と唱え続ける

そういうことも一つの

瞑想の世界なのでしょう。

 

東福寺には桜の木は

一本もありません。

坐禅するのに邪魔になる

というので全部切ってしまった。

とことが、紅葉で一躍有名になり

どっと観光客が押し寄せるという

何とも皮肉な結果になってしまい

ましたが、

たぶんあそこの禅堂も窓がない

のではと思っております。

 

まあ、こういう思索を深める

ということも窓というものと大きく

関係しているようで面白いものです。

 

 

 

 

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