「シンくん」はとても優しい仔でした。
おとなしく、
私が部屋で書きものをしていると、
ひざもとにやって来て、
微妙な距離感を以て
そばにいてくれました。
食も細いというかグルメというか
一緒にご飯をやっても
先に「こころちゃん」が、がつがつ
食べるのを横目に
自分は食べないで、こころちゃんが
食べ終わる頃やっと食べだす
たまには自分の分までこころちゃん
食べられてしまう。
嫌なことされても噛んだり
反抗的な態度は
一度もありませんでした。
本蔵院の中にいても
「シンくん」の見ている世界と
「ころろちゃん」の見ている世界は
まったく別な世界を
心に描いていたのでしょう。
仲良く遊んだ崇正家族も
それぞれに全く別な世界を
見ているのです。
唯識というお経には
「識のみあって境なし」
と書いてあります。
なかなかこの言葉の意味が
解りませんでした。
「シンくん」が見ていた本蔵院、
「こころちゃん」が見ている本蔵院
崇正家族がそれぞれに見ている
本蔵院、
たまに帰ったときに見ている
私たちの本蔵院、
それぞれに見ている世界は
まったく違う世界を見ているのです。
「こころちゃん」にとっては
ご飯を食べてゆっくり寝て
遊んでくれる家族がいて
走りまわれる楽しい場所
というのが本蔵院なのです。
住職の崇正にとっては
お参りする所であり
悩んだ人の相談を聞く場所
それこそ
多くの方々の癒される場所
それが本蔵院です。
一つの場所でも
その人にとってはそれぞれに違う
世界なのです。
唯識的には
本蔵院があるのではなく、
それぞれの人が本蔵院という
世界を思い描いている
本蔵院という意識が起こっている
ということになるのでしょう。
また、唯識では
「東京が来る」といいます。
「東京に行く」のではなく、
東京に行こうと思った時には
もうすでに心の中には
東京という世界を思い描いているのです。
自分が死んでも世界は変わらず
永遠にずっと続いていくものと
思っていたのですが、
事実は世界とは自分が
勝手に思い描いているのです。
自分が死ねば世界も終わる。
なんだか、そういうことが
少しだけわかるような気がします。
だから執着すべきものは
何もないのでしょう。
だからどうでもいいというのではなく、
だからこそ、今このチャンスを
自分を修行の場に置き
自分自身の発見に努めなければ
ならないのです。
「シンくん」のように
いつその終わりはやって来るか
わかりません。
6歳という短い一生でしたが
「シンくん」は自分の精いっぱいの
あふれんばかりの
自己表現をして生き抜いたのです。
その死をゆめゆめ
他人事にしてはならないと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます