本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

仏教は自覚教

2023-07-14 20:19:15 | 十地経

「法と自ということ、

自覚ですね。

仏教というものの特色は

こういうところにあるんです

自覚教ということがね。

真理によって自分を知る。

自分というものの分限を知る

という意味です。

まあいってみれば、

自分が有限のものだと

いうことを知る。

 

そして、

有限なもんだという

自分において、

無限の法を証明してるんです

それが大事なことですね。

 

無限を無限で自覚する

ということはありゃしません

有限でもって無限を自覚する。

だから有限であるけれど、

有限というものを止めて

無限になるんじゃない。

 

有限の身において

無限の確信を

もってくるんです。

そういうところに

自分が成り立ってくると。

有限を知るという意味で

非常に謙譲です。

 

しかしながら、

有限において

無限に触れるんですから、

そこには非常な

確信というものがある。

謙譲にして

しかも勇気があると。

こういう主体性というものが

そこに成り立ってくる。」

 

読みながら思い出したのは

坂村真民さんの

『二度とない人生だから』

という詩です

「二度とない人生だから

  一輪の花にも

無限の愛をそそいでゆこう

  一羽の鳥の声にも

無心の耳をかたむけてゆこう

二度とない人生だから …」

 

と続いていくのですが

「二度とない人生」

ということを知る

ということが

自分が有限である

ということを知るのでしょう

そこには

何か本能的に感じとる

ようなものがあるのでしょう

一度きりの人生

そこが有限というこいとです

 

だから

一輪の花にも無限の愛を

そそいでいこう

そういう心を持てることが

無限の愛ということを

感じとる

有限の身において

無限に触れる

何気ない行為の中に

私たちは有限であり

そういう身において無限と

いうことを感じている

 

先生の講義では

有限において無限に触れる、

ということがで出てきますが

「触れる」

ということが微妙な表現で

得るとは言わない

「真理に触れると」

真理を得るというと

また落としてしまうことが

あるということで

得るつかむというと

自分のもにするという

自分の固執ということを

避ける意味で

こういう表現を取る

のでしょう

 

また、無限ということは

永遠ともいいます

それで

哲学者で宗教学者の

パウル・ティリッヒ

という人は

「永遠の今」

Eternal Now 

(エターナル・ナウ)

というような表現でも

言われています

 

言葉は違うかもしれませんが

有限の身において

永遠という無限に触れる

ということと

同じようなことだと思います

 

いずれにせよ

有限の自分において

無限に触れるという

そういうところに

人間の安心というものが

あるように思うのです。

 

 

 

 

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