この歌で目が覚めました。
最近は 『 水戸黄門 』 の番組もなくなり
もうすでに、番組の主題歌である
この歌も聞こえなくなってきました。
『 水戸黄門 』 という番組、
大体結末も解っていて、
この時間帯になると、黄門さまの印籠が出てくる、
そして事件は一件落着 !
しかし、高齢者の方に頭にのはの測定器をつけて
この黄門さまを見せると、
印籠が出てくる時間帯前後になると、
一気に血流が上がる ( 脳が活性化する )
という実験をやっていました。
思い出したのですが、
以前、結婚式でこの歌をさも気持ちよさそうに
歌っていたご住職がいらっしゃいました。
( それも3番まで )
お釈迦さまは 、
『 人生は苦なり 』 とおっしゃているのに
お坊さんが
「 人生 楽ありゃ 苦もあるさ … 」
は、なかろうなんて思っていました。
それにしても、お釈迦さまは嫌なことをおっしゃる、
『 人生は苦である 』 と、
一休さんも、
「 釈迦という いたずら者が 世に出でて
おほくの人をまよわすかな 」
と、せっかく人生を謳歌している人たちに、
お釈迦さまは 「 人生は苦しいぞ ! 」
なんていやなことをおっしゃる。
先日、倫理法人会で話した後、
やはり、 死とか ・ 苦ということが
頭から離れず、ずっとなにかにつけて
頭のどこかにあって、
ふふっと出てくるのです。
四苦八苦のなかで、
「 生・老・病・死 」 と 「 死苦 」 として
出てきます。
『 苦 』 といっても
人間に感じられる苦とわからない苦もあるのです。
普通には、困ったりどうにもならないことを
苦と感じるのですが、
そうではなく、普段はわからないのですが
ふとしたとき、頭をもたげてくる苦というものがあります。
仏教では 「 四苦八苦 」 といように
「 四苦 」 という ( 生老病死 ) に
もう四つの苦、
( 愛別離苦 ・ 怨憎会苦 ・ 求不得苦 ・ 五陰盛苦 )
を加えて、八苦というふうに分析しています。
その 「 四苦八苦 」 をさらに別の見方をして
厳密に 「 苦 」 というものを捉えているのです。
それは 『 三苦 』 という分け方をします。
『 苦苦 』 ( くく )
『 壊苦 』 ( えく )
『 行苦 』 ( ぎょうく )
このなかで、苦苦 ・ 壊苦 は普段感じている
苦しみというものです。
( 大切なものが壊れていく、離れていく
または、嫌なものががやって来た )
というこれは誰でもわかります。
解らないのが、 『 行苦 』 です。
四苦八苦の中では 「 生苦 」 と 「 五陰盛苦 」
にあたります。
「 やなせたかし 」 さんの歌に
『 ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしんだ … 』
という、ところがあって、
不思議なことに、1番の歌詞が
「 生きているからかなしんだ 」 となっているのです。
嬉しいではなく、悲しいと、
簡単に歌ってしまえばなんでもないのですが
ウ~ン ?? と考えてみると
「 かなしい 」 とはおかしな文言です。
そこには 「 やなせたかし 」 さんのメッセージが
あると思うのです。
「 生きているから悲しい 」
そこには 「 生苦 」 ということの
内容も含んでいるような気がします。
また、
「 ありがとうございます ! 」
この言葉も、当たり前のように
何時も口にしている言葉です。
しかし、お経の言葉でもあります。
「 やがて死すべきものの
今いのちあるは 有り難し 」
生きている、「 生 」 があること自体
「 有り有べからざることが、ある 」
という、当たり前のことではない。
有ること、難し なのだ、
「 ご臨終でございます。」
と、亡くなるとお医者さまはお告げになりますが、
「 臨終 」 終わりに臨んで、という
仏教では、いつでも臨終
臨終が今、ということで、生を生きる
臨終が今とは思いたくないが、
何時かは ? やってくる臨終の陰
そういうものを抱えて生きている
その、私たちの有り方、そのものが
「 生苦 」 とい存在なのかもしれません。
難しい問題です。
そんなことを夢みながら目覚めるとは
臨終が近いのかな ???
といいつつも、 「 ご臨終 」 を
もう少し先に見ている、
という、まだなまぬるい自分があります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます