本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

業によって生まれ、業を果たして死んでいく

2021-01-24 20:32:25 | 十地経

今朝、何気なく開いた

『唯識三十頌聴記』

何かしら響くものがありました。

 

「業によって生まれ、

そして業を果たして

人間は死んでいくもんだ。

それが人間の実相で、

善人であろうが、悪人であろうが

人間は皆平等なんだと。

それが実相でしょう。

そういうことが分かった時、

人間は始めて安んずるんじゃ

ないか。

それをもっとわしは

やるべきことがあると考えると、

死んでも死にきれんでしょう。

業縁が自覚された時に、

始めて野心が消えるんじゃないか

あらゆる人間が

平等に安んずるんじゃないか。

 

業は業感というて、

感という字を使うのは

業だけなんだ。

例えてみたら、

生まれるとか死ぬということは

感覚でしょう。

理知的なものじゃない。

考えられたものじゃない。

業を通して境遇を感覚するわけで

しょう。

人生というものは

そういう感覚の上に成り立って

おるもんだと思うですね。

だから責任といっても

モラルというですか、

道義的責任という、

そういうもんじゃないかと

思います。

 

『生』といたら

永遠に生きるというもんじゃない

死すべく生まれたんだから、

業に応えて生まれ、

業を果たして死ぬるんだ。

死なん生というものはない。

人間は生きるのは喜ぶけど、

死はいやだというのは、

これは実相じゃない。

人間の考えに過ぎん。

生まれたということが、

もうすでに死を孕んでおる。

 

だから死というものをおさえんと

生まれたということが自覚できん

生まれて死ぬるんじゃない。

死するから生まれたということの

意義がわかる。

なぜかというと、

生まれたということじゃ

生まれたという自覚がない。

明日があるということを

考えるからね。

 

死というものにぶつかるというと

何の為に生まれてきたんだろう

ということを反省する。

こうして生きてきたのは

何の意義をもっとるかということは

死に立つから、

死に立って始めて生の意義が

出てくる。

生に立って生の意義は

出てこないでしょう。

明日明日となんぼでも

延ばしてゆくわね。

 

まあこれまでは失敗だったけど、

明日まで待ってくれと、

こういう具合になる。

待てなくなった時に始めて

何の為に生きとったか

ということが自覚されてくる

んですわ。」

 

安田先生の講義は

『十地経講義』でも

この『唯識三十頌聴記』でも

経典は変わっても

問題としておられるところは

すべて通じるものがあるように

思います。

専ら『十地経講義』ですが

こうやってたまに

別の教材を読んでみると

新たな発見があります。

 

 

 

 

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