本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

煩悩の図式化

2018-06-10 17:07:26 | 十地経

お釈迦さまの教えは

きちんとした図式化できるのでは

ないかと思って、

お経もただ羅列してあるというより

もっと立体的なような気がします。

 

煩悩も百八煩悩といいますが

根本煩悩があり

それにしたがって起ってくる

付随して起こる煩悩、随煩悩

というのがあり、

起る範囲の広さによって

小・中・大と分けられています。

 

手書きながら図式して

書いたりして見たのです。

手書きは美しくありませんが

何度も書き直していくと

アウトラインがつかめそうな気がします。

 

まず、無明という自分がわからない

という「我痴」(がち)があり、

それによって、

本当のことがわからないと

本当でないものを本当としてしまう

「我見」(がけん)で

ものを見て判断してしまい

 

すると、

根底には自分が可愛いということが

あるものですから

これを「我愛」(があい)といい

 

それによって

自分に都合のいいものは

むさぼり愛するという「貪」

という心が起こり

反対に都合の悪いものは

にくむ・いかるという「瞋」

という心になります。

 

貪り怒り愚痴というのが

「貪・瞋・痴」(とんじんち)

という三大煩悩です。

そこから貪についても

瞋についても

その心の発展していく様子を

随煩悩として分析しています。

 

瞋についていえば

まず最初に

「忿」(ふん)

ムカッとしたという心です

それで終われば問題はないのですが

ムカッとした心が忘れずに

残った場合を

「恨」(こん)といいます

まだここまではいいのですが

それがふと思い出すことがあります

思い出していよいよ腹を立ててくる

燃え上がってくるのを

「悩」(のう)という随煩悩です

それから「害」(がい)

これは忿の完成形です。

相手を叩き潰そうとする心です。

ですから、

怒りという心は

忿・恨・悩・害というように

発展していくのです。

瞋の心の中にちょっと違った心

「嫉」(しつ)というものがあり

これは、人が善くなっていくことが

辛抱できないということです

人が善くなっていくのですが

自分には関係ないと思うのですが

人が名利を挙げることが

どうしても我慢ならないという

心理状態です。

 

今度は「貪」に付随してくる

随煩悩はまず、

「覆」(ふく)という

自分のやりそこないを隠そうとする

罪を隠そうとすることです

そして、

「慳」(けん)

ケチということです。

ものおしみしてむさぼる

という心ですから

やはり「貪」の発展形です。

それから

「誑」(きょう)

たぶらかす、ということで

何もないのにあるような

格好をするという、

特に私たちも気をつけなければ

いけないのは立派な衣を着ている

ということでいかにも

徳があるように見せるという

宗教家の罠である。

こういうことも貪のグループに

はいるのです。

「諂」(てん)

これはへつらっておべっかをいう

何でもかでもいいですねと

相手を喜ばす

そうして相手を自分の思うように

動かそうとする、

思う壺へはめようとする

そういう根性です。

そして貪のグループの最後は

「憍」(きょう)

おごりたかぶるということで

調子のいい自分を誇るということで

我々の陥りやすい煩悩です

自分が自分に酔うということで

驕慢ということもあり

宗教生活を営むものは

特に傷つけることが多い。

 

この後、中随煩悩・大随煩悩と

続いて行くのですが、

よくぞ、人間の心のひだともいうべき

微妙な心の姿をとらえたものだと

あらためて恐ろしくもあります。

何気なくしていることも

心の底にはちゃんとソロバンをはじき

何が自分にとって

都合がよいか、悪いかを

計算しているのです。

 

お釈迦さまは、よくぞここまで

人間の心を分析されたと

驚くばかりです。

 

 

 

 

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