本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

立ち上がるといのが初歓喜地

2024-06-01 18:13:32 | 十地経

今更ながら

読み返していくと

本当に聞いていなかった

という事が

思い知らされます。

真剣に聞いて実践して

いたならばもっと

色々なことが上手に

運んだと思うのです。

 

「初地からずうっと

一本調子というのではない

ここに何か大きな、

真中に難関というよな、

まあ昔の言葉でいえば、

七地沈空の難

というものがあるんです。

 

それに必ず出会うと。

出会わん人は、

七地に入っていないんです

わしは十地に入っとる

つもりだけど、

沈空にまだ出会わん

といったら

入っとらんのです。

つまり何もやってない

のです。

 

人間は、

立ち上がるというのが

初歓喜地なんです。

立ち上がるということが 

ないといかんですね。

いつまでも何か

待っとるということじゃ

だめですね。

 

まず立ち上がるという。

第一、地という字は、

これはいってみれば

スタンドポイントというか

立脚地でしょう、

立つという。

 

だから地は、

向うから来るのだけど、

立つのはこっちじゃないと

困るね。

立つまでも、向こうから

もらうというわけには

できんじゃないか。

 

地に触れれば

我々は立つんです。

そういう立つ、

しかし立ったら、

必ず何か、

そこでね、

壁にぶちあたると、

それでにっちもさっちも

いかんようになった

ということに出会うんです

 

これが立つにも、

立ち上がったのに、

まして大事な意義がある。

何も失敗のない人という

のは、何もしてない証拠

じゃないか。

 

やった人は必ず

失敗に出会うんです。

ちっとも失敗のないという

のは、何もやらん人の

ことですね。

頭で考えていたら、

何も失敗はないです。

 

まあおおざっぱなたとえで

いうとそのようなこと

になります。

十地がやっぱり一つの難関

に触れ、かつそれを超えて

いったと。

 

どうしても、考えてみても

こういうような難関という

ものは、教理から出てこな

いんじゃないかと思います

やっぱり実際の、

実践というものが

それを開いてくるんで

あってですね。」

 

考えてみると

私たちは立つ場所を

与えられているんですけど

なかなか分からずに

腰掛けて、座ってしまう。

立ちなさいと

抱きかかえられて

立たされても、

何かしんどそうといって

座り込んでしまう。

 

この講義を聞いていた頃は

いろいろ場を与えられた

ように思うのですが

それに応えられなかった

ようです。

 

今いる場所を

よく見まわしてみると

それなりに活躍する場所を

与えられているのです。

その場所を活かしきった人

は自分の力を出せて

自分の存在感を感じること

ができると思います。

 

ほんとうに、

やれば失敗するものです。

やったから失敗するのです

失敗したら実践したという

証拠なのです。

苦しいけど、

そこがまた面白味が

出てくる所でもあります。

 

この講義を聞きながら

あらためて

本当に聞いていなかったと

思い知らされました。

 

 

 

 

 

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