亡くなられたことを「往生」と
いいますが、
字を見ると、「往きて生まれる」
と書きます
ちょっと不思議に思うのですが
「極楽往生」
という言葉もありますから
死ぬんではないんだ
極楽浄土へ往きて生れる
ということでしょう
また、往生という意味には
難儀するというような
どうしようもなくなる
という意味合いもあります
阿蘇の五岳にも往生岳という
山もあります
さほど高くはないのですが
学生自分登った時
突然霧に見舞われ一寸先は闇
という状態になり
道に迷い、さまよい続け
霧が晴れてみると
すんでの所で崖っぷちに
来ていました。
その時の言葉が
「往生岳あって往生した」
ということでした。
何気なく辞書を見ていると
往生とは、
いのち終わって他の世界に
ゆき生まれること
また、往生をねがうのを願生
という、とあります。
悩んだり苦しんだりという
この迷いの世界を離れ浄土へ行く
ということを往生というのです
その下の項目を見ると
「おうべいか」ということが
出ています。
この言葉も仏教用語なのか
昨日の「志村どうぶつ園」
「タカアンドトシ」という人も
レギュラーのようで
その人のネタが「欧米化」
漢字は違うが読みは同じ
志村さんに
「もう一つネタが欲しい」
と相談したところ
「一つあれば十分
それは素晴らしいネタですよ」
「自分は何十年かけて
やっと、バカ殿様と変なおじさん
この二つだけ
欧米化をやり続けなさい」
と言われたそうです。
で、仏教でいう「おうべいか」は
奥萆迦と書きます
aupayika(アーウパイカ)を
音写した言葉です。
「爾り・シカリ」「好し」
「͡是の如くなるべし」
というような意味の言葉です
持戒作法を成し了った時、
師である阿闍梨が認可を与える
時の言葉が「奥萆迦」です
「これで好し」
というようなことでしょう
それに対して
弟子は師に向かって
「善哉(センザイ)・善哉」
(sâdhu・サードゥ)と
善いかな・善いかなという
わけです
お経の最後の文句は
「善哉・善哉」で終わっています
なんだか、この二つの言葉が
私なりつながったのです
志村さんは
「バカ殿様と変なおじさん」
をやり続けられた
小さな子供さんもお散歩の
志村さんを見るなり
「変なおじさん」と
慌ててお母さんが
子供の口を覆う
志村さんはにこにこして
変なおじさんよ、と
それほどまでに浸透した
志村さんのネタ
それで、
その二つのネタで
「志村さんは志村さんになった」
それこそ
「往きて生まれた」
のではないかと思います。
自分が本当の自分になる
これこそが
往きて生まれる・往生する
ということでしょう
本当の自分に出会うことなく
うろうろしているのが
私たちでしょう
それをやりきったところに
志村さんのすばらしさがあると
思います
タカアンドトシも
「欧米化」をいかに
自分のものにしていくかが
志村さんからの宿題
のようにも思います。
そうすると
志村さんから
「奥萆迦」(オウベイカ)と
言われるかもしれませんね。
それに答えて
タカアンドトシも
「善哉・善哉」(サードゥ)
と言えば
それこそ仏の対話のようですね。
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