『十地経講義』にちょうど
方便智ということが
出てきたのですが
「方便」ということも
なかなか難しい言葉です
嘘という字は
口へんに虚しいと書きますが
もとの意味は
うそぶくこと、息を長く吐く
ということですが
日本では「うそ」の意味に
なったということです
『嘘』という歌もあります
一世を風靡しました
なかなか微妙な人の心理を
表現しています
面白いところでは
「嘘と坊主の頭は
ゆったことがない」という
諺もあるようです
仏教では方便ということは
「方便智」という
一つの智慧として出てきます
十波羅蜜の中に
方便波羅蜜ということが
あります
『十地経』のなかでは
楽無作行対治という
その楽無作行を対治するのは
方便智と有ります
本来、方便とは
ウパーヤといって
近づく、到達する、という
意味です
辞書には
たくみにはかりごとを
設けること
向上し進展するための手段
といように出ています
さとりへ近づけるための
手段とか方法
ということでしょう
ちょっと難しくなりますが
一応、方便ということが
たんに、「嘘も方便」
ということだけではない
もっと深い意味を
含んでいますので
進趣方便(シンシュホウベン)
さとりに向かって近づく行、
権行方便(ゴンギョウホウベン)
仏が衆生を導くために
はかりごとをめぐらす智慧
施造方便(セゾウホウベン)
目的理想の達成のために
なすことがたくみで
かなっていること
集成方便(シュウジョウホウベン)
一の中に一切を具え
一切の中に一を成じて
たくみに相集まって
成立している
ここのところは
「一即一切・一切即一」
one is all all is one
ということに通じるでしょう
ウパーヤという近づける
という意味を方便と翻訳した
ことも分からないところです
そこから
方便ということが
正しく理解もされずに
嘘も方便というような
勝手な解釈もしれませんが
正しい目的へ近づける
ためには手段はウソでもいい
というのは
おかしいようにも思います
修行では
「嘘」ということが
一番諌められることです
人をごまかしても
自分自身はごまかせない
嘘をついたということは
自分の心に残っていくから
です
それが積み重なると
自分の心はウソで満たされ
人生までもが嘘の人生になる
ということなんです。
方便智という智慧で
楽無作行対治という
空に執着する
空に落ち着いてします
その心を対治するのは
方便智という智慧なんです
先生の言葉で残っているのは
「方便智発起殊勝の行」
「楽無作行対治」という
何かしら意味も分からず
心に残っていることがなんです