先日からの続きですが、
「このままの自分でいい」
ということはないのです
今の自分を超えていきたい
という願いが根底にあります
講義では
「例えばニーチェに
Üermensch・ウーバーメンシュ
ということがありますが、
これは人間を超える
という意味ですね。
人間を超えていく
ということが人間の本質だ。
その意味で
橋というたとえも
使っていますけど、
人間は橋であると。
こういうような意味が…
人間を超えていくとか、
自分を否定するとか、
人間はただ肯定を望む
ものじゃない。
自己自身を否定するような
要求も人間はもつ。
だからして
罪悪深重とか凡夫であるとか
いうのは、
つまり倫理的反省じゃない。
倫理的な価値判断から
いっとるんじゃない。
最も高度な人間の自覚です。
全世界を包むような
大きな精神は、
人間は罪悪深重なものである
というような、
そういう砕かれた自分だ。
それは理性の立場からみれば
何か負けたというように
考えるけど、
そうじゃない。
頭を下げたんじゃない。
下がったんだ。
下げるのは理性の立場です。
ところが、
人間が頭を下げる
ということは
負けたんじゃない。
それが人間の本質なんだ。
人間というものは
頭を上げたいものじゃない。
下げたいけど
下げる道が見つからん。
仏道に触れて初めて、
満足して下げることができた
これが南無というものです。
下げて情けないとか負けた
ということは仏教には
ないんです。
外からいうから
失敗したとか成功したとか
いうけど、
失敗とか成功とかいうのは
人間の立場で
人間を考えとるからです。
あらゆるものを縁として、
人間は
自分を超えていくんです。
失敗ということによって
初めて、
人間は自分の有限ということ
を知るんです。
有限を知れば、
その有限を通して無限に
触れるわけです。
その時有限のままが
無限なんです。
だからそこには
一点の失敗もないんです。」
先生と対談されたティリッヒ
という方は
「永遠の今」eternal now
ということを仰ってましたが
有限の人間が永遠なる真理に
ふれる一瞬があるのでしょう
なんだか
そういうものに触れる
そういう感覚が誰しもある
のですが
なかなか現前として感じ取る
ことが難しく
他のことに気が取られて
見過ごすことが多いのです。
しかし、
今日のところは
人間が自分を超えていく
ということが
それは難しいことでもなく
誰しも心の底で願っている
ことのように思います。