『十地経』の八番目は不動地
当院のご本尊は不動明王
お経の中にも「不動」という
言葉が出てくると気になる
ものです。
ちょうど講義でも「不動」
ということが出てきました。
「人生のあらゆる問題は
皆その因縁によって
賜ったものです。
問題は、
それを如何に
我々がいただくか
ということが
我々の責任になるわけです。
それほど強い対場はない。
良いものは欲しいけれども
悪いものはいやだとか、
そういうことじゃない。
悪いものがきても
良いものがきても、
逆境がきても
順境がきても、
それは平等に如から来た
ものです。
如から賜ったものです。
そうすれば
もう動きようがない、
自分の立っておる大地はね。
不動です。
地を見出したということは
自分が不動になった
ということです。
不動ということは
どの地についても
言えるんです。
地は不動ということと
同義語なんです。
しかし最も顕著に表して
あるのが第八不動地です。
だけど
初歓喜地の経文から不動
ということが語られています
しかし地そのものは
十はないけれども、
地を得た自分には色んな
雑夾性をまだもっています。
たとえてみたら、
先言ったように
心境を開いたような正見の
智慧を開いたということは
具体的には信心といっても
いい。
信心はキリスト教の
信仰と違って、
仰ぐというようなこと
とは違って、
信知するという。
やはり一つの智慧という
ものを、
信として智慧を賜る。
正見の智慧を賜る。
人間の智慧じゃないんだ。
論理的な智慧じゃない。
信心が成仏するんです。
信心を得て別にまた
成仏するということはない。
信心が成仏するんです。
成仏の真因なんです。
信心が成仏する。
しかし信を得た時
すぐ成仏したと、
こうは言えんのです。
信は凡夫でも得られるけど
成仏したときには
凡夫ということはありえない
凡夫にも信心は開く。
その信心が成仏するんです
けども、
しかし
信心は凡夫と矛盾せんのです
凡夫の中に凡夫を破って
現れる。
ちょうど
泥の中に蓮華が咲いた
ようなものだ。
蓮華は信心の華です。
しかし
蓮華の花の咲いたところは
泥の水の中です。
泥の水があるということと
蓮華の華があるということと
は何も矛盾せん。
泥の中にあっても泥にならん
だから正見というのです。
だから信心を得ても
信心を得ない人と同じ
欠点をたくさんもっている。
だからして、
信心を得ても甘いものは
甘いし寒いものは寒い、
困るときは困る。
信心を得たらなにも困らんと
そんな嘘をつく必要はない。
困るときは困る。
だけど
困るといっても
困るということが
立場にならんのですよ。」
難しいところですが
不動ということは
出発点が見つかった
ということでしょう
生まれた時が出発ではなく
人間として本当の問題が
見つかった
ということが出発でしょう
だから
十地という道を歩んでいける
ということのように思います