四諦、四聖諦(苦集滅道)
のなかの「集」ですが
求めて飽くなき愛着が集だと
ありますが、
講義では、
「苦しんでいるのは自分です
苦しんでいるという事実が
あるのは自分自身です。
世界といっても
人生といっても
自分の存在の他にはない。
そういうことになる。
だからそういうときには、
苦悩にあえぎながら
思索しとるんです。
楽しんで
傍観しとるんじゃない。
正しく思惟すると、
苦悩を受け取って、
逃げ出そうとせずにそれを
内観するわけです。
苦を内観するから集という。
何が苦しんどるのか、
なぜ苦しんどるのか。
苦しんどるというのは
いったいどういう状態なのか
こういうように
苦を内観していくわけです。
苦しいと
すぐ助けてくれと、
そういうのは
苦というものを
祈りというようなもので
神の力を借りて解脱する
とかいう低い意味の宗教意識
そういうもので
解決しようとしなかった。
苦悩を内観する。
つまり苦を知ることによって
苦を解脱する。
だからそこに、
正見の智慧だけが苦悩から
解脱させる。
苦行したり初めやってみた、
仏陀も。
けどそれは無駄だったと、
無駄骨を折ったと。
それからインドには
ヨーガというものがあります。
ヨーガというのは定ジョウです。
精神を澄まして何か一つの
ある特殊な境地というもの、
無念無想の境地に達したのが
解脱だと、
こういう考え方がインドでは
非常に強いんです。
やってみたけど、
それはまあ
それに違いないけど
長続きがせんではないか。
定におる間は平静でも
定を出ればいっぺんに
壊れてしまう、元の木阿弥。
だから
定が涅槃でじゃない。
定が苦の滅を証するもんじゃ
ない。
けど定は無意味じゃない。
やはり正見というものを
生み出す一つの方法にはなる
それで正定を組織に入れた
わけです。
苦行の方は捨てちゃった。
けど定の方は組織して
止観という。
今日の言葉では内観です。
この道を見出きたところに
仏教というもの非常な
特色がある。」
面白いことに
西洋ではフランクルという
精神学者ですが
アウシュビッツを生き抜いて
こられた方ですが
「生命そのものが
一つの意味を持っているなら
苦悩もまた一つの意味を
もっているに違いない。」
また
「苦悩することは
人間の一つの能力である。」
こういうことを
アウシュヴィッツという
極限の中から
感じとられたのです。
「集」という
苦悩する、苦を内観する
そこから
苦をよく見ることによって
苦からの解脱をはかる
という
何か洋の東西を超えて
通じるものがあるようです。