最初から安田先生の教えを
聞こうと思ったわでもなく
たまたま、
東寺の宝菩提院に
お世話になった時
『十地経講義』が開かれて
いたのです
当初は一泊されて
二日にわたる講義でした
私たちにとっては
掃除と準備で
一月の中で一番忙しい
時でした
末席に座り
分からない講義を聞く
時折ひらめく言葉に出会い
分からないなりにも
先生の話には嘘がない
本当の話ではないかと
思っていたのでした
ただ、一番苦痛だったのは
講義も終わり
座談会で、
今日の講義についての
質問を順番にする
ということです
尋ねても
先生は黙して答えられない
聞いた方が赤面するような
「維摩の一黙雷の如し」
ということがありますが
その黙されている姿に
その場の張りつめたような
空気に重みを感じたのです。
しかし、講義を読んでいると
先生ご自身も
やはり
感じとられていたようで、
「我々が法を聞くとか、
法を求めるとか
そりゃ深い自覚から
求めりゃせんのです。
初めから深い自覚で求める
といったら
求めるものは一人も
おりゃせんのです。
なんか縁に触れて
ちょっと聞いてみる。
聞いたみるとやっぱり
聞かずにおれんようになる。
仏道を聞かずにおれんように
なるということは、
仏道の歴史をもっとるから、
各人が。
だからして、
各人が各々その歴史を、
仏道の歴史を背負って
仏道を求めている。」
本当にささやかな
偶然というか
しかし、その根底には
人間が仏道をもっている
ということが
そうせしめているのでしょう
「だから、
座談会というようなこと
言ってもうまくいかんのです
僕はあちこちで経験するけど
なかなか、
その問うこと出てこんしね
そうかといって、
問うのを待っと、
時間が済んでしまう。
問わんちゅうわけにはいかん
問うても一向、何か、
心臓の太い、厚かましい
人間の座談会になってしまう
声の大きい方が勝ってしまう
ということになって
なかなか
うまくいかんもんです。
それほど何か、
問いというのは深いもんです
やっぱり相手に
答えるんだから、
相手の表面を超えて
相手の内面に深く入って
ですね、
そこで歴史をもっとるん
だから、相手が。
それを解明してくると、
こういうようなことですね」
先生も、
よく言われることですが
「修道的人間」と
人間のあり方が修道的だと
修道ということにおいて
人間が成り立つと、
歩み続けている
というでしょう。
先生も自分は学生だと
学生それを(がくしょう)と
よんでおられました
一生勉強し続けると
それが本当の人間の
あり方ではないのか
ということです。
まあ、
本当に不思議なご縁です
学生時代に聞いたこの講義が
自分の一生の課題になるとは
おかげで
何か知らし続けることが
出来るということは
有難いことです。