本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

浅きは深きなり

2022-05-13 19:51:03 | 十地経

「浅きは深きなり」

というのは法然上人の

言葉です、が

外面的には何でもないことが

実は深い意味があるんだと。

こういうことが出てきました

 

この反対で、

何でもないことを

何でもないことのように

出来るのが実は大変なのです

お坊さんになって

お経は何とか読めても

何気ない動作でぼろがでる

ことがあります

お参りの人の前で何気なく

衣をたたむ、

お仏壇でマッチを擦って

ろうそくに火を灯し

線香に火をつける

こういう何気ないところに

修行をやってきた

深さが出るようです。

 

講義ではもっと深くとらえ

話されておられます

 

「今度は利他、

これはやっぱりこの、

波羅蜜の行を修行するけど

法として取るべきなし、と。

取るべきなし、

という否定が後になっとる。

これまでは全部他はみんな

否定の方が先に書いてある。

空無我に入って而も

何々すると。

こういうようになっとるけど

今度は逆になって、

波羅蜜を行ずるけども、

しかし波羅蜜に執着せんと。

 

こういうような意味であって

わしがやったぞ

というような意識はないんだ

と。

それが深いという意味です。

本当に深いものは

簡単にやるんですわ。

淡々としてやね、

人のやることを

わしもやっとる、

何も大したね、

人生を背負うて立つという

ようなことはですね、

を簡単にやるんですわ。

 

えっ、淡々として

それがやれるんです。

いつでも裸になれると。

見とれ今になるぞ

というようなことをいって

なっとるんじゃない。

無心というんですね。

無心に行ずると。

だから、

どんないいもんでも、

いいことをやったぞ

と言ったら、

言った瞬間にそれは

小さくなってしまう。

 

だから、

どんな小さなことでも、

やったという意識がなければ

大きいんです。

実際そういうことが

人生を荘厳するんです、え。

大法螺吹きなんか

ちょっともそういうことを

するもんじゃない。

汚すだけです、世の中をね。」

 

男の私にはちょっと

耳に痛い言葉です

頼まれると

これやったぞと

言わんばかりに

恩着せがましくなってきます

なかなか淡々とは出来ない

ものです。

 

よく先生は

「鳥が飛んだ

でも、

跡形も何もないじゃないか

飛んだという事実はある

けど跡形はない」

という譬えを

話されていました

そういうことこそが

大事ではないかと。

 

波羅蜜の行と言っても

やったという意識が残れば

やらなかったのと同じ

やったやったという

執着がなかなか取れない

ものです。

 

恩は着せるものではなく

着るものだと

三浦先生もよく言われて

おられましたが

こういうことも無意識に

恩着せがましいことが

出てくるものです。

 

淡々と、淡々と

さらりとできればいいですね

この淡という字も

さっぱりとした味。

六種の味の一つに

(甘・酢・鹹・辛・苦・淡)

淡があります。

鹹(カン、しおからい)

 

また、淡泊というと

心に欲がなくなってさっぱり

しているさま。

煩悩を滅した涅槃を意味する

寂滅の同義語、とあります

 

淡泊路(たんぱくろ)は

死体が捨てられる場所。墓場。

ということです

また、

ヨガのシャバアーサナの

シャバは淡泊の意味があり

幸福、安寧の意味もある

ということです。

 

 

 

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