「夏炉冬扇」かろとうせん
夏の火鉢、冬の扇子
というのですから
どちらも今必要でないもの
ということです
もう今は必要ない火鉢です
長火鉢もオブジェとして
その存在を示していますが
また、
芭蕉という方も
ご自身を「夏炉冬扇」と
自覚されていたようです
芭蕉といえば俳聖といわれる
ほどの方です
けれども、
世の中にとっては
必要でないものではないか
という深い自覚から
あえて、夏炉冬扇と
呼ばれたのかもしれません。
仏教の方でも
「臘扇」ろうせん、と
呼ばれた方もおられます
臘は十二月のことですから
やはり「冬の扇」
必要でないものという
ことです
一面には宗教ということも
「いらないもの」
ということもいえます
宗教はなぜ必要なのか
これから
この問題も問われていく
ことになるのでしょう
大僧正でございとか
仰る方でも
自分の存在意義ということを
明らかにしていなければ
いけないということがある
ようです
僧侶という方々も
一面には夏炉冬扇という
自覚も必要なように
思います。
また、
宗教問題は第一義諦と
いわれます
まずは、何はさておいても
考えならなければいけない
ことなのです
お釈迦さまの出家は
国の王子でありながら
妻も子もあり
普通から見れば何不自由の
ない生活です
そこに、問題が起きた
人間が生きるということは
どういうことなのか
人間とはいったい
どういうものなのか
そういう、
国も妻も子供もさておいて
考えなければならない
問題が起きたのです
それで、第一義というのです
自分自身とは
一面には夏炉冬扇の存在
であり
一面には第一義という問題を
かかえた存在なのです
このことは両方とも
必要な問題であり
こういう自覚を持つことが
要るようにも思います
僧侶だからと
偉そうにするのでもなく
また卑下することもなく
よくよく
自分自身をみて見ると
政治問題や経済問題から
すると夏炉冬扇の生き物で
まあそういう自覚に立つ
ということが大事なように
思うのです
また一面には
第一義諦という問題を
なにはさておき
考えなければならない
義務のような責任が
あるように思います
でなければ
お釈迦さまの出家の意味が
なくなってしまいます
まるで正反対のような
ことなのですが
夏炉冬扇と第一義という
問題は常に頭の中から
離してはいけない問題だと
思うのです。