本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

四無量心=無限の心

2022-05-02 20:25:34 | 十地経

慈・悲・喜・捨の四無量心

慈無量心

悲無量心

喜無量心

捨無量心

の四つです

 

辞書を見ると

慈とは楽を与える

悲とは苦を除く

喜とは他人が楽を得るのを

   見て喜ぶ

捨とは他人に対して愛憎怨親

 の心がなく心が平等である

というように出ています

 

経文では

「衆生無我に入って而も

 衆生を捨てん」

と出ています

講義では

「無量心は無限の心

というものだろうと思います

無限の心。

いつくしみというものは

これで尽きる

というものでなく、

無限の心という意味です。

 

たとえてみたら、

今消えていく花というものを

惜しむといえば、

花は瞬間に消えていくけど、

花を惜しむ心は無限なのです

瞬間の後に消えていくような

はかない命であるけれども、

その命を痛む心は

無限の深さだ。

瞬間に消えていくものが

無限の内容をもっとる。

 

一日生きても

無限に生きたことになる。

百万年生きたことが

百万年生きたことにならん。

朝に道を聞いて

夕に死しても

無限の生命に生きた

ということが成り立つんです

 

無限の生命は

客観的にあるんじゃない。

客観的にははかないものだ。

主体的にあるんだ。

花の深さは人間にあるんです

人間をみて

それをいとおしむという、

人間の心が花の深さなのです

無量の心です。

 

慈悲喜捨というのは

悲でもいいんですけども、

悲というけども

何も悲しんで涙ぼろぼろ

出しとるのが悲じゃない。

喜でもいいというんだ。

正反対だけどね。

 

「悲喜の涙を抑えて

由来の縁をしるす」

ということがある。

悲と正反対の概念である

喜でもいい。

それでも同じ心を表せる。

ただ情けない顔しとるだけが

能じゃないんだ。

喜でも表される。

 

むしろ悲とか喜とかいう

ケバケバしたものでなく

捨シャ、平等心。

本当の深い悲しみ、

本当の深い喜びというものは

むしろ平等の心を言う。

捨シャは悲と喜の極端を

捨てとるという意味で

捨シャという。

 

無量の心は

共同感情というものです。

花の例は譬えですけど、

この場合は

衆生の問題ですから、

衆生を捨てずして

無量の心を起こすと

いうのですから、

だから

衆生の悲しみをもって

我が悲しみとなすという。

衆生と無関係に悲しむ

のじゃない。

衆生の悲しみをもって

我が悲しみとなすと。

 

つまり

悲しみを共にする

というんです。

それで無量だという。

あるいは喜びを共にする

といってもいい。

喜びと悲しみを共にする

という。

問題は共にする

ということが大事なんだ。

それで捨という。

平等感情だ。

 

捨といっても

冷淡だという意味じゃない。

冷淡という意味じゃなしに

ケバケバシとらんけど

実は内面に悲喜を包んだ

平等心であって、

ただ知らん顔しとる

という意味じゃない。

悲しみと喜びというものを

内に包んだ、

そういう内面を包んだ意味の

捨であるが故に

それはかえって慈という

ものだ。

 

衆生に対する衆生の…、

こういうのが生命感情

というものじゃないか。

一切衆生と生命を共にする

感情じゃないか。

生命感情だ。

まあ、

ここまでにしときましょう、

今晩は。」

 

講義も最初も最後も

なんか、頂点から始まり

頂点で終わるというような

全部問であり全部が答え

というような

段々によくなりという

ことではなく

挨拶で始まり締めで終わる

ということがないのも

先生の講義の面白さ

でもあります。

 

 

 

 

 

 

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