本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

純粋の行(ギョウ)

2021-12-25 20:50:32 | 十地経

「行」ということも

三つの意味があるようです

一つには、

「諸行無常」の行という、

すべての存在という「行」

それから、

さとりにいたるための修行

という「行」

普通には「行」といえば

この行のことを思います

もう一つは

「威儀即仏法」という

四威儀(行・住・坐・臥)

の中の行です

行くも帰るも坐るも臥すも

という歌があるように

普通に進み行くという意味の

行です。

 

やはり行といえば

私たちが思い浮かぶのは

六波羅蜜の行です

形あるというか目に見える

滝に打たれるとか

断食するとか

苦行の面のことが行として

思うのですが

根本は六波羅蜜の行です

布施・持戒・忍辱・精進・

禅定・智慧の六つです

その中心は

般若波羅蜜というように

智慧(般若)がその基です。

 

『十地経』では

「功徳の法を起こして

増上波羅蜜の行と作す。

而も法として取るべき無し」

という文章で出てきます。

なかなか読みにくい文ですが

これはどうも

インドの方が中国語に

翻訳したところに

何かぎくしゃくした文の

ように思います。

 

講義では

「功徳の法を起こし

増上波羅蜜の行を作す

けれども、波羅蜜に執着せん

という、空だと。

波羅蜜を修行するけれども

修行したという意識はない

んだと、こういうんです。

行を行ずるけど、

行じたという意識はないんだ

それが実は行そのものである

心なんだ。

行じたというようなことを

意識しとったら、

行じゃないんです。 …

みんなそうですわ。」

 

というように出てきます。

ちょっと厳しい行なんかやると

「やった!」という自慢げな

心が顔に出てくるものです。

そういう意識だと

まだ本当の行に

なってないのでしょう。

 

男というのも

何かしら、

どうも自慢したくなるもので

ちょっと手伝いでもすると

すぐに恩着せがましくなり

してやった、という意識が

出てくるものです。

そこを家内に見透かされ

足をさらわれます。

 

「行じた」という意識が

女性には鼻に付くのでしょう

女性には日々やっている

当たり前のこと

ちょっと手伝ったくらいで

してやったと

恩を着せるな

ということでしょう。

 

とても

身近な話になりましたが

そういう行じたという

意識が残るようでは

まだ、行になってないのです

「鳥が飛んだ

飛んだという事実はあるが

跡形はないではないか」

ということを

よく、安田先生は話して

おられましたが。

飛んだという事実はあるけど

跡形は何も無い

そういうことが事実でしょう

なかには

姿形を銅像にしたりして

残す方もおられますが

 

さらりと生きて

気がついたら

あの人亡くなってたわ

といわれるように

そういうところに

「純粋の行」というものが

あるように思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

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