本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「色は空 空は色との 時なき世へ」 

2013-02-27 20:48:24 | 住職の活動日記

 「 色 は 空

 

    空 は 色 との

 

     時なき 世へ 」 

 

          市川團十郎

 

 今日、『 市川團十郎さん 』 の葬儀が営まれました。

そのとき、辞世の句として紹介されたのが、

この一句です。

 海老蔵さんは 「 いろ ( 色 ) は そら ( 空 )

そら ( 空 ) は いろ ( 色 ) との時なき世へ 」

と、言っておられました。

 とても意味深い、團十郎さんの芸に対する思い

それから今後の市川一門に対する思いの込められた

一句と思いました。

 「 父は宇宙が好きで、空を眺めるのが

   好きだった。」

と、語っておられました。

 

 平成17年5月、真言宗総本山醍醐寺で

醍醐寺歌舞伎が催されました。

出し物は、歌舞伎十八番 『 勧進帳 』 です。

 その時の、 『 弁慶 』 役の 「 團十郎 」

『 富樫 』 役の 「 海老蔵 」 さん、

醍醐寺の金堂を舞台にして、とても熱のこもった演技でした。

それ以来、すっかり俄か歌舞伎ファンになってしまったのです。

 

その歌舞伎に先立って、醍醐寺僧侶による 「 仁王会 」 の

お勤めが厳修されました。

 お蔭様で、その法要には 「 崇正 」 も参列いたしました。

お勤めもクライマックスのとき、

お参りした時に使った、 「 加持棒 」

 

   

 

が、お参りの方々に投げられました。

たまたま、今の 「 仲田順和管長さま 」 の加持棒が

私のところに飛んできたのです。

 というご縁もあり、今でも大切に遺しています。

  ( プチ自慢ですが、その金堂にお供えされたのは

    熊本特産の晩白柚 バンペイユ だったのです。 )

 

 『 團十郎さん 』 の辞世の句ですが、

坊主の悪い癖で、どうも仏教的に見てしまいました。

 「 色は空 ( しき は くう )

   空は色との ( くう は しき ) との 」

と読んでしまったのです。

 ま~、 般若心経にある

『 色即是空 空即是色 』  という文句です。

 それぞれの受け取り方はあると思います。

それはそれとして、大切なことです。

受け取り方は各自いろいろあってもいいと思います。

 

 私なりには、

色とは、形あるものすべて、です。

表面に現われる、芸事すべては 「 色 」 ということでしょう。

その形として現われるその根底には、

形として現われる根源の姿、姿なき姿 ( 空 )

そういうものが無いと、形あるものは表現でない、

空とは、仏教では 「 無分別智 」 という言い方もします。

また、空とはあらゆるものを成り立たせている

そのもの、というにもいえるのです。

だから空というものに触れるならば、

演技としては、無限の表現があるのだ、

「 空とは色との 」

ということが出来ると思います。

「 時なき世へ 」 と続きますが、

哲学的には 『 永遠の今 』 という表現もあります。

また、古来

 「 朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり 」

という一句もあります。

 そのときその時の演技が 「 永遠の今 」 に触れる、

演じきることが出来れば、そのとき死すとも可なり

ということでしょう。

 何十年生きようが、その一瞬に自分を表現しきらなければ

「 時なき世へ 」 にはならない。

 『 團十郎さん 』 は病苦との闘いの中で、

一瞬一瞬がいのちを賭けて演じてこられたのでしょう。

 どんなに形だけ真似ても駄目なのだ、

その形の本当の姿に触れなければ、

また、真の姿の本質に触れるならば

あらゆる表現が可能なのだ。

という思いが込められているような気がするのです。

 ( 門外漢の私が言うのもおこがましいのですが )

 

 仏教にも、

『 果分不可説 』 ( かぶんふかせつ )

ということがあって、

結果である 「 仏 」 は教えを説かない。

『 因分可説 』 ( いんぶんかせつ )

仏になる前の 「 菩薩 」 が教えを説く、

ということがあるのです。

 なにも、ただ菩薩が教えを説くというのではなく

菩薩は、教えを説かない 「 仏 」 を背景として

教えを説く、

そこが大事なところです。

勝手に言うのではなく、

不可説という仏を背景にして教えを説く。

だから、ありとあらゆる手段を持って

説くことができる。

 「 色は空  空は色との 」

すべての演技は本来、形のないものだ

だからこそ、形のない世界に触れたならば

ありとあらゆる表現が可能なのだ。

もっといえば、形のない 「 空 」 という世界に触れなかったら

どのように巧に演技にしても、真の姿ではない。

 「 時なき世へ 」

後悔のない一日を送れば、一日生きても永遠に生きたんだと。

目的とか利害とか名利とか考えておったんでは

百年生きても生きたことにならない。

 と、そういう思いを込めて

『 團十郎さん 』 はこの一句を残されたのではないでしょうか ??

 

 と、勝手に坊主の私が思ってみました。

  ( 色とか空とか、がでてきたものですから …  )

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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