似たような字です。
『 檀 』
檀家さん、とか 檀那さん、という場合には
木へん、の 「 檀 」 を使います。
本来はインドの言葉の 「 ダーナ 」 を
そのまま音写して 『 檀那 』 と書いたのです。
簡単には 「 旦那 」 とも書きます。
意味は 「 お布施 」 ということになります。
毎月の給料 ( お布施 ) を持って帰る人
ということで、ご主人のことを 「 旦那さん 」
と呼んだのでしょう。
「 檀家 」 となると、
お布施を頂く家、 「 檀那の家 」 ということが
略されて 「 檀家 」 となったのです。
ですから、「 檀家 」 とはインドと日本語の
合わさった言葉になります。
ですから、 『 檀 』 という使い方は
意味というよりもその音だけ使用したのです。
厳密には、インドの言葉の〇〇は漢字の
これに当てるという約束事があるようです。
かたや、 この 『 壇 』 は、土へんで、
一段高くなった場所、とか
特殊な社会における中間という意味があります。
文壇とか、画壇、というように
また、花壇・仏壇・祭壇というように使います。
「 仏壇 」 は仏教に関係があっても
「 仏檀 」 とは書かないのです。
はたまた、 「 蜜 と 密 」 ですが、
漢字では 『 蜜 』 は、( むしへん ) で出てきます。
『 密 』 は、 ( うかんむり ) で調べます。
真言密教 という場合は 『 密 』 と使いますが、
般若心経に出てくる、
『 般若波羅蜜多 』 のときは 『 蜜 』 を使うのです。
「 般若 」 もよく聞く言葉ですが、
インドの言葉サンスクリットでは 「 プラジュニャ 」
パーリー語では 「 パンニャ 」を音写したものです。
「 波羅蜜多 」 も、 「 パーラミター 」 をそのまま
音に当てたのです。
「 彼岸へ渡っていく 」 、という意味になり、
訳すると 『 到彼岸 』 となるのです。
『 蜜 』 も意味は 「 蜂蜜 」 の蜜ということなのですが、
ここでは単純に音だけとって 『 蜜 』 としたのです。
「 密 」 の方が、何かしらいいような気がするのですが、
あえて、 「 蜜 」 を使っているのです。
このことは、 「 三蔵法師 」 が翻訳されるとき、
インドの言葉を翻訳するか、それとも
翻訳しきれないので、そのまま音写するか
それを決めていく翻訳スタッフがいたようです。
それは、インドの仏教が中国に伝わったとき、
その当時、中国には宗教らしい宗教がなかった。
だから、宗教に対する言葉も無いし、
宗教的価値を表す言葉もなかったので、
あえて訳さず、そのまま音写したともいえると思います。
そして、 「 般若 」 は 「 智慧 」 と訳しますが、
普通使う 「 おばあさんの知恵袋 」 というのとは
ちょっとニュアンスが違ってきます。
本来持っている意味を表現できなかったということもあるのでしょう。
お経の難しさ、わかりにくさも
見れば同じ漢字なのですが、
ただ単に音だけとった言葉と
その深い意味を含んだ言葉と
ごちゃ混ぜになっているということもあるようです。
特に最近 「 壇 」 とか 「 蜜 」 とかいう字が
あちこちで踊っているようで、ちょっと気になりましたので …
まで、