いつ、どこにあっても
『 今、ここ 』 に
生命をかける
いのち
テレビのコマーシャルではないですが、
「 いつやる ! 今でしょう ! 」
といううたい文句が流れてきます。
とてもインパクトのある言葉です。
お経のなかに、
「 過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来たらざるを念 ( ねがう ) ことなかれ
過去 すでに捨てられたり
未来 そはいまだ到らざるなり
ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ
たれか明日死のあることを知らんや 」
というお釈迦さまの言葉があります。
明日こそは、明日こそは、と言いつつ
今がないのです。
聞法会や勉強会のあと、
「 とてもいい話でした。」
と軽く答えると、
「 それでは、今ここで何ができますか 」
と厳しい答えが返ってきます。
本当に話に感動して、身に沁みたら
次の一歩が出てくるはずです。
話は分かった、でも体が動かない
ということは、何も分かったということではありません。
「 今日のお話はとてもよかった !! 」
と、おっしゃいますが、
ひねくれた私には 「 どうでもよかった 」
と聞こえてしまうのです。
( 普通にはそれでいいのです。
が、ここ一大事という話は
そんな、よかった、という話ではないのです 。 )
三浦先生との話はそんなのんびりした話ではなく、
『 くっそ~ ! そこまで言うか ! 』
というぐらい、身に応えたのです。
三浦先生も 『 今 』 ということをとても
大事にされていました。
『 明日はないのだ ! 』
100年生きたとしても、
『 今 』 という時間を捉えることができなかったら、
100年の人生が無駄に生きたということになりかねません。
いつも読むお経の最初の言葉が、
『 この身 今生において 度せずんば … 』
という、ことです。
「 この身 」 ということが 「 ここ 」 ということ
「 今生 」 ということが 「 今 」 ということです。
『 相田 みつを 』 先生の
「 そのうち 」 という詩もドキッとさせられます。
そのうち お金がたまったら
そのうち 家でも建てたら
そのうち 子供から手が離れたら
そのうち 仕事が落ち着いたら
そのうち 時間のゆとりができたら
そのうち …
そのうち …
そのうち … と、
できない理由を
くりかえしているうちに
結局は何もやらなかった
空しい人生の幕がおりて
頭の上に 淋しい墓標が立つ
そのうちそのうち
日が暮れる
いまきたこの道
かえれない
衝撃を受けました。
『 今 ここ 』 にいのちをかけてゆこう !