本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

ドナルド・キーンさんを見ました!

2008-05-12 17:55:21 | 住職の活動日記
 昨夜 『 NHKBSハイビジョン 』 で万葉集の解説をしておられました。

ずいぶん、年をとられたようです。でもお元気そうで何よりでした。

 不思議なことに、今、 『 キーン 』 さんの本読んでるところなんです。

『 世界の中の日本 』 という題で、司馬遼太郎さんと対談されているものです。

 今読み返してみると、またとても面白い本です。


 古い話なのですが、キーンさんとは一緒に面白い体験をしました。

東寺にお見えになったとき、五重塔をご案内したのです。なにせ、一番上まで上がると

おっしゃるので、ご案内いたしました。ちょっとへっぴり腰で上がっていかれるのがなん

とも面白く、それに、キーンさんの靴がちょっと パクパク してたのが、今でも印象に

残っています。  ですけど。

 その頃は、キーンさんという方が深い認識もないまま、外人のくせに、やけに日本のこ

とに造詣が深い方ぐらいにしか思っておりませんでした。

 ( 靴パクパクの思い出しかないのは実に残念!! )


 あらためて、読み返すと、この方の日本人観は私たちももう一度、近世の人たちの考え

方、生き方を再認識する必要があるように思います。 
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段山の踏み切り ご用心!

2008-05-12 17:20:50 | 住職の活動日記
 やはり、段山トンネルが通行止めになったことで、戸惑う方も多いのではないでしょう

か? 菩提樹苑へお参りの方、何気なくトンネルを目指して、トンネルが通れない、

どうしよう! ちょっとくるくる回って、到着された方もいらっしゃいました。


 私も、早速、通ってみました。

 『 徐行 』 の目印を持った方が立っておられます。   

 この 『 段山の踏み切り 』 なんかとても段差があるのですね。

私のチッコイ車は車高も高いので難なく、それでも結構バウンドしながら通過、

後ろの車、普通のスピードで突っ込んできました。 『 ガァ~ン 』 

どうも、底を擦ったみたいです。

 振り返って見てみると踏み切りが結構な段差があるのです。 『 ナゼ ? 』

設計ミス? 考え直してみると、線路がカーブしているからではないでしょうか。

カーブしているということは、線路が傾斜しているのです。だから、段差のようになった

のではないでしょうか?

通られる時には、ゆっくりと、徐行される方が安全です!

 老婆心ながらお伝えしておきます。
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今週の言葉5/12~5/18

2008-05-12 10:49:31 | 今週の言葉
       我が身を立てんとせば   まず人を立てよ


 お経とかにはいろいろ面白い喩えがたくさん書いてあります。

 『 地獄と極楽の食事風景 』 です。

 極楽では、すべての人は、自分の欲しい食べ物を腹いっぱい食べ、お互い楽しく、和気

藹々と語り合っている、  というのですね。

 さて一方地獄の食事はというと、一口の食事も喉を通らず、また一滴の水も口に入らず

飢えに苦しんで、殺気立ち、いがみ合い、争いを繰り広げている、 というのですね。

 それでは、食堂をのぞいてみましょう。

 不思議なことに、地獄の食堂も極楽の食堂もすべてがまったく同じなのです。料理の飾

り付けから、料理の内容までおなじで、そこにはありとあらゆるご馳走が並べられている

そうです。その 『 極楽食堂 』 ではみなが好きに物を食べ、まことに楽しく食事を

しているのに、 『 地獄食堂 』 では誰一人、何も食べられず、飢餓状態で殺しあっ

ているのです。

 なぜでしょう?

 それは、ちょっとした規則によることなのです。

 食べるために、箸やナイフやフォーク、スプーンが準備されているのですが、それらが

すべて、手よりずいぶん長く、そして規則として、『 その端をもって食べよ 』、と定

められているのです。

 としますと、食べ物は一人では絶対に口にいれることが出来ないのです。

そこで、地獄の人々は、山のようなご馳走を前にして、一人で何とか食べようともがくの

ですが、フォークやナイフが長すぎて食べるどころか相手を傷つけて、最後は殺し合うと

いうことになるのです。

 ところが、極楽は食べたいものをフォークやスプーンにのせて、他人の口に運んでいる

のです。自分は欲しいご馳走を指さして、これが欲しいと言えばよい。すると、隣の人が

喜んでそのご馳走を自分の口に入れてくれる。だから和気藹々と仲良く、お腹いっぱいご

馳走を食べることが出来るのです。


 このことは今の世の中のことを暗示しているようです。自分さえよければとか…

そこからなんかギクシャクした世界が生れてくるようです。

  ほんの少し、他の人々のために心を配る

 仏教には 『 無財の七施 』 という言葉があります。

まったくお金がなくても、七つぐらいの施しは出来るというのです。

 例えば 他人に優しい言葉をかける。
      微笑をもって人を迎える。
      老人や病人に席を譲る。

 
 この簡単そうなことが、実はとても難しい行為なのですが、でも、心の持ち方で、これ

は誰にでも出来ることだと思います。

 まずはひとのために、ほんの少し心を配る。その積み重ねが、自ら人徳を深めることに

なり、ひいては我が身を立てるということになるのではないでしょうか。
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