北面武士

至誠通天

30年前の写真

2016-09-03 | 日記

九月三日(土) 曇

長らく仕事に追われていて、気がついたらもう九月だ。 ”光陰矢の如し”という言葉を痛感する年頃となってきた・・・。

先週八月二十八日(日)は、皇學館大學卒業生が年に一度集まる館友会が伊勢・神宮会館において開催されたので、南さんの推薦で専属写真師として撮影させて戴いた。 現在写真データを事務局の方へ預けているので、南さん達の写真はまた後日アップさせて戴く予定。

今朝からエアコンの取替工事を行っているので、工事が終了するまで待機しなくてはいけない。  ちょいと時間が空いているので、久しぶりにブログをアップする事とする。

前回アップした写真より古い30年前の写真があったのでアップ。

左上は日光江戸村がオープンした頃。 右は京の都の二条城。

昔の職場の仲間・舎弟分達を集めてドライブ。  女の子を誰の車に振り分けるか、各員との調整が難儀だった事を思い出す。 この内の3組は結婚して、現在でも夫婦継続中。

 

夏休みに仲間達と会津若松経由で越後へ移動中の一葉。

毎年天皇誕生日に、皇居へ連れて行った舎弟の結婚式にて。 昨年は、一ノ関の四分六分の兄弟分と共に大船渡へ鎮魂の旅へ訪れた。

この頃は全員で馬鹿丸出しで本能に忠実な生活を過ごしていた。 現在でも・・・、”わかっちゃいるけど、止められない”。

この翌年あたりから多忙となり、全員が一緒に集まる機会も減ってきた。

 

私は適材適所という言葉を完全に無視されて何故か支那へ行かされ、懸念していたように上海空港へ到着したら別室へ連行されて、薄暗い個室で尋問にちかい質問を浴びせられたが、約1時間後に無事入国する事が出来た。 しかし、太陽は沈みかけて入国した途端空港ロビーの電灯が少しずつ消灯となり、空港が閉店ガラガラ状態となっていった。

当時は日本人観光客など一人もいない頃で、文革が終わって10年くらいで人民服を着た支那人達が暗い目をして、私を珍しそうに見ていた。 とりあえずタクシーにて上海市内まで移動。 目的地までいろいろとあったが、昔ブログに記載したので割愛。

 

現在ではこのモコモコの綿入コートを着ている人はいないだろうな。 当時、揚子江(長江)より南の官公庁では冬でも暖房はなく、寒さを凌ぐ為に着込むしかなかったが、それでも寒かった・・・。  江西省・南昌市街の中心地へ行くと西服(洋服)を着ている人達が多く見られた。 

 

江西省にある廬山にて。 廬山は水墨画に描かれる風景そのもので、文革で破壊されなかった支那の詩人達が讃えた風景が残っているが、唯一毛沢東の言葉を石を削って赤色で塗ってあったのに腹が立った。 

廬山は支那共産党幹部の避暑地であり、毛沢東が大躍進政策で失敗した後で廬山会議が開催され、毛沢東は国家主席辞任となり、劉少奇が新たに国家主席に選出された場所。  その後、陰険な毛沢東は文化大革命という名の下、自分の権威を失墜させた劉少奇や彭徳懐らを失脚させた。 

光陰矢の如し。

それでは、また。 ごきげんよう。

コメント
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