ふと地図を眺めているうちに、中野区の上高田という地名の場所にお寺がまるでネックレスのように繋がっている通りを見つけました。その通りの名は「早稲田通り」となっています。この早稲田通りに面し中野方面に向い右側にお寺が綺麗に並んでいます。
これは一度伺ってみようということで、梅雨明けを思わせる炎天下にもかかわらず愛用のカメラを携え一路、中野の上高田へと向かいました。
上高田は東京メトロの東西線の「落合駅」が至近であるため、我が家からは乗り換えなしで一直線で行くことができるのです。
あまり下車することのない地下鉄「落合駅」から地上にでると、おそらく34度近くになっているであろう熱風が体全体に襲いかかってくる。息苦しささえ感じる今日の気温に、まずは水分の調達。
あまりの暑さに一瞬、お寺巡りをあきらめて帰宅しようかと思う反面、せっかく来たのだから一つ、二つのお寺を詣でてからでも遅くないと自分に言い聞かせ、寺巡りを開始しました。
まずはこんなところに、こんなメジャーな歴史の人物が眠っているという高徳寺へ伺うことにしました。ここ高徳寺にはなんと江戸時代の有名な儒学者である「新井白石(1657~1725)」が眠っているというではありませんか。
高徳寺ご本堂
高徳寺は親鸞聖人を宗祖とする真宗大谷派の寺院で中野に移転してくる前は浅草に堂宇を構えていたようです。明治41年に区画整理のために現在地に移転してきました。よって新井白石が亡くなった時代であるお江戸の享保時代は高徳寺は浅草にあったのです。白石先生と当寺の関係は先生が若いころ、二度に渡って当寺に寄宿され、ここで勉学に励まれたようです。そんな繋がりがあって、没後高徳寺に埋葬されてわけです。
早稲田通りに面して三門を構え、それほど広くない境内の奥に真新しいご本堂と隣接するように新井白石記念ホールが建っています。
ご本堂の左わきの細いスロープを下りていくと墓地へとつながっています。結構広い墓地を眺めながら、古めかしい墓石を目で追いながら、新井白石の墓石を探すのですが、おいそれとは見つからないのです。照り付ける日射を遮るものがない墓地の見学は結構しんどいものがあります。
意を決して、広い墓地の通路を一回りしてみましたがそれでも見つかりません。もう一度、今度は逆回りに進んでいくとなにやら立札らしきものが目に入ってきました。きっとそうだろう、と足を進めていくと立札には「新井白石墓」と墨で書かれています。
新井白石の墓立札
古めかしい墓石が整然と並び、その一番奥に玉垣に囲まれた墓域があるのですが、予想に反して立派な墓石が目視できないのです。先入観としてこれほどまでの歴史の人物であれば、それなりの墓石で造られているはず、とおもいきや、なんとも可愛らしい墓石が玉垣の中に置かれているではありませんか。見方によってはこの石は台座ではなかろうかとおもわれるほど、白石先生の墓とは思えないほど貧弱なものでした。
新井白石夫妻の墓
尚、玉垣の中には墓石が二つ置かれているのですが、おそらく白石夫妻のものではないでしょうか。そして白石先生の墓へと通じる道の両脇には一門の墓が並んでいます。
新井白石一門の墓
しかし、当寺は明治にここ中野に移ってきているので、白石先生の墓はおそらく「お骨」は入っていないのではないでしょうか?
住所:東京都中野区上高田1-2-9
東京メトロ東西線の落合駅から徒歩5分
家康公の近習「板倉重昌」が眠る中野の名刹・宝泉寺
中野・願正寺には日米修好通商条約批准交換使節の正使「新見豊前守正興」が眠っていました


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これは一度伺ってみようということで、梅雨明けを思わせる炎天下にもかかわらず愛用のカメラを携え一路、中野の上高田へと向かいました。
上高田は東京メトロの東西線の「落合駅」が至近であるため、我が家からは乗り換えなしで一直線で行くことができるのです。
あまり下車することのない地下鉄「落合駅」から地上にでると、おそらく34度近くになっているであろう熱風が体全体に襲いかかってくる。息苦しささえ感じる今日の気温に、まずは水分の調達。
あまりの暑さに一瞬、お寺巡りをあきらめて帰宅しようかと思う反面、せっかく来たのだから一つ、二つのお寺を詣でてからでも遅くないと自分に言い聞かせ、寺巡りを開始しました。
まずはこんなところに、こんなメジャーな歴史の人物が眠っているという高徳寺へ伺うことにしました。ここ高徳寺にはなんと江戸時代の有名な儒学者である「新井白石(1657~1725)」が眠っているというではありませんか。

高徳寺は親鸞聖人を宗祖とする真宗大谷派の寺院で中野に移転してくる前は浅草に堂宇を構えていたようです。明治41年に区画整理のために現在地に移転してきました。よって新井白石が亡くなった時代であるお江戸の享保時代は高徳寺は浅草にあったのです。白石先生と当寺の関係は先生が若いころ、二度に渡って当寺に寄宿され、ここで勉学に励まれたようです。そんな繋がりがあって、没後高徳寺に埋葬されてわけです。
早稲田通りに面して三門を構え、それほど広くない境内の奥に真新しいご本堂と隣接するように新井白石記念ホールが建っています。
ご本堂の左わきの細いスロープを下りていくと墓地へとつながっています。結構広い墓地を眺めながら、古めかしい墓石を目で追いながら、新井白石の墓石を探すのですが、おいそれとは見つからないのです。照り付ける日射を遮るものがない墓地の見学は結構しんどいものがあります。
意を決して、広い墓地の通路を一回りしてみましたがそれでも見つかりません。もう一度、今度は逆回りに進んでいくとなにやら立札らしきものが目に入ってきました。きっとそうだろう、と足を進めていくと立札には「新井白石墓」と墨で書かれています。

古めかしい墓石が整然と並び、その一番奥に玉垣に囲まれた墓域があるのですが、予想に反して立派な墓石が目視できないのです。先入観としてこれほどまでの歴史の人物であれば、それなりの墓石で造られているはず、とおもいきや、なんとも可愛らしい墓石が玉垣の中に置かれているではありませんか。見方によってはこの石は台座ではなかろうかとおもわれるほど、白石先生の墓とは思えないほど貧弱なものでした。

尚、玉垣の中には墓石が二つ置かれているのですが、おそらく白石夫妻のものではないでしょうか。そして白石先生の墓へと通じる道の両脇には一門の墓が並んでいます。

しかし、当寺は明治にここ中野に移ってきているので、白石先生の墓はおそらく「お骨」は入っていないのではないでしょうか?
住所:東京都中野区上高田1-2-9
東京メトロ東西線の落合駅から徒歩5分
家康公の近習「板倉重昌」が眠る中野の名刹・宝泉寺
中野・願正寺には日米修好通商条約批准交換使節の正使「新見豊前守正興」が眠っていました





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