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大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸本所松坂・赤穂浪士討入りの吉良邸の佇まい【本所松坂町】

2010年12月19日 23時06分23秒 | 墨田区・歴史散策
「時は元禄15年、師走半ばの14日」で始まる赤穂浪士の討入り。14日の高輪泉岳寺は四十七士の菩提を弔う多くの参拝客で賑わっていました。そこで赤穂浪士が討ち入った本所松坂の吉良邸の様子が気になって、今日ひとぱっしり行ってみました。



案の定、吉良邸跡はひっそりとした佇まいで、訪れる人もちらほらといったところです。これまで何度もこの場所にはきているのですが、師走のこの時期に訪れるのは初めてです。

吉良邸門前

吉良邸跡といっても、かつての広大なお屋敷が残っているわけではなく、当時の広さから比べれば猫の額程度の敷地しかありません。海鼠塀に囲まれた小さな敷地に入ると、これまでなかったものが新たに置かれていました。狭い敷地の奥になんと吉良上野介の真新しい坐像が鎮座しているではありませんか。坐像は高家としての格式ある正装姿で、台座の上に鎮座しています。おそらく今年の義士祭に間に合うように造られたものだと思います。

吉良上野介坐像
吉良上野介坐像


邸内には吉良上野介の首を洗ったと言われる「首洗いの井戸」やその井戸の傍らには清水一角をはじめとする吉良側の家臣たちの名前が刻まれた碑が置かれ、その前には真新しい献花が置かれていました。

首洗い井戸
吉良側家臣の碑
松坂稲荷大明神祠

憎まれ役の吉良様ということで、高輪泉岳寺の四十七士の墓前にたむけられた献花や線香の煙に比べると、あまりに侘しい雰囲気が漂っています。まあ、いたしかたないかなといった風情です。

時は元禄15年、師走の半ばの十四日・賑わいをみせる高輪泉岳寺、恒例の義士祭
お江戸元禄事件簿・そろそろ季節がやってくる!「忠臣蔵・赤穂浪士討入り」の裏話【本所吉良邸と谷中観音寺





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今日のスカイツリーはほんの少し成長して514mの高さになっていた!

2010年12月15日 17時15分31秒 | 墨田区・歴史散策
冬ばれの今日、真っ青な空のもと師走の陽射しに映えてキラキラと輝いていました。タワー本体の最頂部はほんの少し成長し、完成時の高さ634mにあと120mにまで迫ってきました。



タワー周辺の附属施設の工事も順調に進んでいる様子。押上駅側の高層のビルも最上階部分が出来上がり外壁工事が進んでいます。この辺りでは最も高層なビルなのですが、タワーの高さに押され気味。



第一展望台の外壁もかなり出来上がり、さらには第二展望台の空中回廊の丸みが目視できるようになってきたスカイツリーも残すところ、ゲイン塔(アンテナ部分)の取り付けで2011年の春頃には634mの高さになる予定。



そんな折、東武百貨店が「東京スカイツリー福袋」なるものが発売されるとのこと。東武百貨店の池袋、船橋、宇都宮、大田原の4店で12月26日から1月2日まで発売される予定です。販売数はものすごく限定されているようなので、抽選になるようです。
※船橋は12月16日からのようです。
福袋は3種類あり、2011年に合わせて各々2011円だそうです。
詳しくは下記URLで確認してください。
http://www.tokyo-skytree.jp/news/2010/11/post-30.html




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お江戸向島・勝海舟も禅の修業、黄檗宗の古刹牛頭山弘福寺【墨堤下向島】

2010年12月15日 15時29分57秒 | 墨田区・歴史散策
向島検番通りの東詰めには桜餅で有名な長命寺があります。その長命寺と隣接して建っているお寺が牛頭山弘福寺なのですが、見るからに日本の寺院建築とは異なる山門とご本堂の姿が周囲を圧倒するかのように向島の料亭街に妙に溶け込んでいるんです。つい先日までご本堂の修理が行われ、お堂全体が覆われていたため写真もとれずブログでの紹介を控えていました。やっと修理が終り、お堂の姿が現れたので画像と共に隠れたエピソードなど紹介いたしましょう。

弘福寺石柱
弘福寺山門
弘福寺本堂

この弘福寺は中国から渡ってきた禅宗の一つ黄檗派(おうばくしゅう)の寺で、延宝6年(1673)鉄牛禅師によって創建されました。木造のご本堂は昭和8年創建のもので黄檗宗特有の唐風の特徴を持つ中国明様式を伝えています。本堂両翼にある円窓、堂前の月台、柱にかかる扁額など、他の寺院にはあまり見られないものです。堂宇全体のデザインは京都宇治の黄檗宗大本山の万福寺のミニチュア版といった風で良く似ています。

 

 



実は当寺は向島七福神の内、布袋尊が祀られているのですが、境内には布袋尊の祠がありません。いったいどこにおられるのかと思いきや、ご本堂の中に鎮座しておられます。ご本堂の扉はあいていませんので、中を覗きこむと堂内右側にどっしりとしたお姿が見られます。新年元旦からのご開帳では、布袋尊の間近まで行く事ができると思います。



そしてもう一つ、当寺には「爺婆尊」と呼ばれる石像が安置されています。通称、「咳の爺婆」と称され、口中に病のあるものは爺に、咳を病むものは婆に祈願し、全快を得た折には煎り豆と番茶をお礼をするという風習が伝わっています。

 

爺婆尊石像

毎年、冬になるとインフルエンザの流行を控えて、この爺婆尊にお参りする老若男女が多く訪れるといいます。石像は山門を入ってすぐ右手に小さな祠があります。この祠に爺婆尊が安置されています。

最後に当寺と勝海舟の関わりについてほんの少し触れておきましょう。ご存知のように海舟は本所入江町(吉良邸がある松坂町とは隣同士)で生まれ、ちゃきちゃきの江戸っ子として育ちました。20歳くらいまで本所で暮らした海舟はその間、浅草新堀端の島田道場で剣術修行に励み、同時に禅の修業も怠らなかったのです。この禅の修業をおこなった場所がここ弘福寺だったのです。勝の後日談として、あの幕末の荒波の中で、自分を失わず物事に対して冷静に対処できたのは、若い頃の剣術修行と参禅の日々の賜物であったと述懐しています。
尚、当寺には残念ながら勝海舟にまつわるものは何もありません。

ご本堂の左手奥にはそれほど大きくはないのですが庭がつづき、その庭からみるご本堂の後姿もなかなか貫禄のあるものでした。



お江戸墨堤・三囲神社は三井越後屋の守護神を祀る
お江戸墨堤・家光公名付けの「長命水」【向島・長命寺】





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久しぶりのスカイツリー訪問~500m超えの雄姿(511m)~

2010年12月01日 15時06分55秒 | 墨田区・歴史散策
都心を歩いていると、狭い路地の向こうにスカイツリーが見えたり、坂道を下るときに遥か彼方にスカイツリーのシルエットが浮かび上がったりと、都心の至る所からその姿を捉えることができる位の高さになったようです。



ほぼ一ヶ月ぶりにスカイツリー直下へ出かけて見ました。この1ヶ月の間に遠目からでも完全に500mは超えているだろうと推察していたのですが、なんと本日の高さは511mの表示が掲示されていました。



第一展望台の外壁もかなり出来上がり、第二展望台の姿も整って、さらに上に成長しています。晴れ渡った秋空の下、白磁を思わせるような白い鉄塔は柔らかい陽射しにその白さを際立たせていました。



634mまで残すところ123mとなりましたが、おそらくこの後の工事はアンテナ部分の据え付け作業がまもなく始まるのではないでしょうか? すでにアンテナ部分はツリー内部でロケット鉛筆のような工程の組み立てが進み、一気にツリー内部の空洞の中を吊り上げられて最頂部に設置されるとのことです。




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お江戸墨堤・家光公名付けの「長命水」【向島・長命寺】

2010年11月07日 09時32分37秒 | 墨田区・歴史散策
隅田川墨堤はお江戸の時代から「観桜の名所」として江戸の庶民に親しまれてきた場所。すでに別頁で紹介したように、長命寺の桜餅でも有名な場所です。

今日のお題はその長命寺。

長命寺山門
ご本堂

天台宗東叡山の属し、古くは宝寿山常泉寺と号していたそうですが、創建年代は不明です。
時は寛永(1624-1643)の頃、この辺りに鷹狩りにやってきた三代将軍家光が急に腹痛を起こし、それを見た当時の住職が庭の井戸の水で薬を服用させたところたちどころに痛みが治まったので、家光公はその水の効用を賞賛し当寺に長命寺の寺号を与えたといいます。一説によると家光ではなく家康であったとも言われていますが‥‥。そしてその後、井戸の水も長命水と名付けられました。その井戸がご本堂の前の小さな東屋の中に今でも置かれています。また井戸の傍に「長命水」の云われを記述した石碑も置かれています。

長命水の井戸
 

長命水由緒碑

また当寺の境内には芭蕉の死後、芭蕉を祀るための芭蕉堂がありました。芭蕉堂は宝暦年間(1751-1764)に芭蕉の孫弟子であった俳人�楸徳(ぎとく)が建てた自在庵が始まりと伝えられています。この�楸徳(ぎとく)さんは蔵前の札差でうなるほどの金を持っていたようです。後に能阿によって再興され、長命寺の芭蕉堂と通称され、芭蕉の木像(現存)を安置し、俳諧三昧の粋人たちによって引き継がれていきました。
この芭蕉像は元禄時代に孫弟子たちの手で作られたということで、芭蕉の面影をよく伝えているものとして大変貴重なものであると言われています。

その後、維新の変革期になると草堂はつぶれ、芭蕉像は長命寺本堂へ移されました。しかし、これではいかんと明治期の粋人たちの手で茶室風の芭蕉堂を建てたのですが、明治29年の日本銀行ボートレースの際に打ち上げた花火によってこの芭蕉堂は焼けてしまいました。幸いにも芭蕉像は難を逃れたそうです。
また関東大震災の際も寺は猛火に包まれましたが、住職が芭蕉像を担いで逃げたので危うく焼失を免れたと言います。

こんなお堂が立っていた跡に、芭蕉翁の句を刻んだ大きな石碑が置かれています。
この句碑は「雪見の石碑」と呼ばれているのですが、実はお江戸の頃はここ向島は雪の名所で、前を流れる隅田川(大川)を受けて、その風色言うことなしと賞されていたのです。
そして刻まれている句は
「いざさらば 雪見にころぶ ところまで」

雪見の碑

長命寺にはもう一つこんな興味ある噺があるんです。
時はお江戸幕末の衝撃的な事件として誰もが知っているあの「桜田門外の変」に関係する「ある人」と深い関係があるという本当の噺。

桜田門

あの雪の降る日、桜田門外をゆっくりと通過する井伊直弼の行列には80人ほどの徒歩の侍がお供をしていたのですが、その中にはまだ年若いお小姓が籠脇に侍り、主人である直弼を守っていたのです。水戸浪士たちの突然の襲撃に井伊側が即応できず、あえなく主人、井伊直弼は首をあげられてしまったのですが、その側にいたお小姓も刀を抜き合わせることなく、浪士に背中から一刀を浴びせられ、その場に昏倒してしまったのです。
幸いな事に、それ以上切つけられること無く一命はとりとめたのです。

当時、お小姓とは言え、籠脇に侍るということは主人を守ることが第一の務め。それが刀を抜きあわすことなく斬られてしまうのは誠に不甲斐ない有様。その後、彦根藩内部では藩規により、このお小姓に切腹を命じようとしたのですが、年少を理由に死一等を減じて永の蟄居としたということです。

ご存知のように、お小姓は主君の身の回りの世話係りですが、多くは同性愛の関係にあり、ことあれば主君に殉することを忠誠心としてお勤めをしていたのです。事件後、命永らえたこのお小姓は、主人であった直弼のもとへ行きたいと悩みつづけた結果、ここ長命寺に入って髪を下ろし、直弼の菩提を長く弔う生活に入ったのです。
当寺で修業を積んだこのお小姓なる人物はその後、ここ長命寺の第26世の住職となった「千葉昭如」その人なのです。

こんな噺がのこる向島の長命寺には向島七福神の弁財天が祀られています。

ここ長命寺周辺には有名な甘味処として「長命寺桜餅の山本や」ともう一つ「言問団子の言問亭」の2軒が至近距離にあります。「どちらがお勧めですかと」、よく聞かれますが、せっかく墨提に来たのですから、両方のお店の名物を是非味わって頂きたいとお答えしています。先日、久しぶりに言問団子のお店で団子を楽しんだのですが、入口から入ってテーブル席に腰をかけたところ、窓枠がまるで一幅の絵の額縁のようにスカイツリーを描き出してくれました。

言問団子の言問亭

更に、この言問亭に隣接する少年野球場の入口のアーチに嵌めこまれているプレートをご覧になってください。一本足打法の王貞治氏です。実は王さんがまだ少年の頃にこの少年野球場で日々猛練習をし、世界の王さんへと羽ばたいていく礎をなした場所なのです。

少年野球場のアーチ
王貞治氏のプレート

まだまだご紹介したい場所がここ長命寺周辺にあるのですが、それは次のお楽しみにしておいてください。

お江戸の時代からつづく墨提の甘味老舗・長命寺の桜餅「山本屋」さん余話【お江戸墨提・向島】





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どこまでも高い秋の空、その空に聳えるスカイツリー…人出もはんぱじゃない!

2010年11月03日 20時23分38秒 | 墨田区・歴史散策
秋晴れの文化の日、下町の新名所スカイツリーは「日に千両がおちる」勢いで、はんぱじゃない人出で賑わっていた。
逆さツリーのフォトスポット、十間橋の上は押すな押すなの芋洗い状態。十間川の川面に映る逆さツリーを見ることができる場所として、休日ともなると狭い十間橋の上に大勢の老若男女がひしめき合っている。
それが下の写真。

十間橋上の人ごみ

十間橋から西十間橋そして押上の交差点へぬける細い路地から見る最先端技術の賜物であるスカイツリーの姿は、下町らしい細い路地の雰囲気とその路地の両側に並ぶ民家と電線との妙なミスマッチが受けているようです。多くの見学者がこの路地から見えるスカイツリーをカメラに収めています。
それが下の写真。



そして押上側から業平橋へつづくスカイツリー直下の河岸通りは今日も沢山の人出で溢れていました。まさにスカイツリーの真下にいるような錯覚すら覚えるこの場所は、逆さツリーの名所である十間橋にも負けない賑わいを見せています。
それが下の写真。



いよいよ今日のスカイツリーの姿。本日のツリーの高さは497m。あと3mで500mの大台に到達。すでに第一展望台は完成ではありませんが、それなりの形になっています。そして第2展望台らしい姿ができつつあるのが最近のスカイツリーの姿です。雲一つない秋晴れの空の下、スカイツリーの独特の白さがさらに際立っています。
それが下の写真。

 

 



業平橋を渡り、東武線業平駅のホームの真下からスカイツリーを見上げてみました。ホームのガード下にいると「ホーム上でのスカイツリー見学と写真撮影はご遠慮ください。」の駅員のアナウンスがひっきりなしに聞こえてきます。以前、ホームの上からスカイツリーがどのように見えるのかを試して見ましたが、誰かがどんなに注意しても、首が痛くなるまで見上げつづけ、電車がホームに入ってくるのをつい忘れてしまうほどでした。
当然、感覚的にはそれこそツリー直下にいるような感じなので、シャッターチャンスと思いついカメラを構えてしまうのです。こんなところに駅があるのが悪いので~す。駅員さ~ん。安全のため注意を促がすのがお仕事なのでしょうが、ほんの少しだけホームから上を向かせてください。できればホームの上に専用の展望台を作ってください。お願いしますよ!
そんな気持ちでとったのが下の写真。






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お江戸の時代からつづく墨提の甘味老舗・長命寺の桜餅「山本屋」さん余話【お江戸墨提・向島】

2010年11月02日 13時08分28秒 | 墨田区・歴史散策
墨提の寺社巡りは現代人にとっても、気軽に遊山を楽しめる絶好の場所ではないでしょうか。江戸時代にはご内府からさほど離れていない場所で、且つ船でのアクセスが唯一の訪問手段であったことから、大店の主人の隠れ家として、ある種の別荘地的な役割を担っていたのが向島だったようです。春夏秋冬、それぞれの季節毎に美しい景色が広がり、通人や粋をきどる人たちの憧れの地、それが向島です。

そんな向島には江戸時代から愛された甘味の老舗があります。それも寺社巡りで疲れた体を休めるのにちょうどいい場所にあるんです。
浅草側から歩いてくると、かつての水戸家蔵屋敷があった隅田公園そして隣接する牛嶋神社を抜けて、検番通りへと入ると三囲神社。三囲の神を参詣し、歩を進めると弘福禅寺と長命寺に至ります。
一方、多聞寺を起点とする北側からのルートは向島百花園、白鬚神社を巡り、歩行距離のある長命寺に至るころにはきっと小腹がすいていることでしょう。

桜餅の山本屋さん外観

こんな場所にある甘味処は隅田川ほとりに店を構えています。長命水で名高い「長命寺」を参拝後にお勧めしたいのが「桜餅」の山本屋さんです。
長命寺さんのちょうど真裏に位置しています。長命寺の裏木戸が開錠されていれば、そのまま墨堤へと上ると山本屋さんの脇に出ることができます。もし裏木戸が開いていない時は、お寺の正門を出て、左へ進み道なりに墨堤へ進んで行くと山本屋さんの正面にでることができます。

この山本屋さんの歴史を少し紐解いてみましょう。
創業者は下総、銚子の山本新六という御仁。元禄4年(1691)の頃、職を求めて江戸へやってきたのですが、職も無くやむなく長命寺の寺男になり、山門脇に小屋を建て門番を務めていたようです。
人生何が幸いするか知れないもので、享保の時代になり、吉宗公の計らいで大川(隅田川)の土手に桜が植えられ、毎年開花の季節には多くの花見客で賑わうようになったのです。そこで山本新六はふと思いつき、桜の落ち葉をかき集めて、醤油樽に漬けこみ、餅を包んで売り始めました。すると、風味よく、甘さも満点との評判が高まり、たちまち「墨提の桜餅」として江戸の庶民たちの間で名物となったという話が伝わっています。ですから創業以来、280年余りの歴史を持っている老舗なのです。

また江戸の洒落話の中にこんな記述があります。
ある時、田舎者が山本屋さんで桜餅を「上包みの葉と一緒に食べていたそうな」。さっそくそれを見ていた通行人が「そりゃ、お前さん。皮をむいて食べるんだよ。」と教えたところ、田舎者は「ほお~、そおかい。」と隅田川(大川)の方を向いて食べ始めたをいう話なのですが、この洒落の意味はご理解いただけますか?

名物「桜餅」

味の良さもさることながら、実はこの山本家は美人の家系としても非常に有名だったようです。
時は幕末の頃、安政元年(1854)若くして老中に昇りつめたあの阿部正弘の本当か、嘘かわからない話なのです。正弘が幕閣に入って間もない頃、英才でもあり、芸能にも秀でた彼は、江戸三座の控え櫓の一つ、河原崎座で興業中の新狂言「桜餅屋の娘であるお豊を物語りに組み込んだ狂言」を見たらしいのです。それ以来、正弘はお豊を贔屓にしたことで、山本屋さんはますます商売が繁盛したという言い伝えが残っています。おそらく老中がわざわざ向島くんだりまで餅を食べに行った訳ではないらしく、逆にお豊を屋敷に呼び付けたのだと思われます。と言うと、つい「手込めにしたのでは?」なんて無粋な考えを巡らせてしまうのですが、それは早計で当寺は大名や旗本が自分の屋敷へ芸者や狂言師を呼ぶことはごく普通のこと。酒興を添えた程度で、お豊もその程度の「贔屓」関係だと考えられます。

そして時が移り、明治に入ってからのお話です。これも「本当かいな?」と思うような話です。
ご維新後、三条実美、岩倉具視など新政府のお偉方が、当時のオランダ公使と隅田川の舟遊びに誘ったそうな。
柳橋から大川へと屋根船をだし、両岸の景色を楽しんだのですが、折りしも向島の春たけなわの頃、墨提の桜の美しさにオランダ公使は感嘆の声をあげたのです。この遊覧のルートには弘福禅寺や長命寺の参拝も含まれ、もちろん名物「桜餅」の接待も組み込まれていました。
公使一行は山本屋さんの緋毛せんの縁台に腰を下ろし、しばしの休憩を楽しんでいましたが、公使は餅には見向きもせず、接待に出た当時の看板娘「お花」に見とれ、ついには「ひと目惚れ」をしてしまったのです。

公使は早速、お花を妻か妾に所望したいと言い出す始末。父親の山本屋に交渉したがとてもとても応じるわけにはいかないと…。
そこで三条実美の出番です。
「山本屋、こう考えてくれんか?日本が悲惨な戦争もせず、文明開化の世を迎えられたのは、オランダの助力があったからじゃ。それを話して娘に納得させてもらえぬか?」
こんな理由が通るわけではなく、お花はがんとして聞き入れず、強硬に拒みつづけました。
そしてこんどは岩倉具視の出番となります。
「お国のためと思って承知してくれ。昔からお主のためなら喜んで命を捨てたものもいる。」と芝居がかった台詞で懸命に口説いたのです。
これが効を奏したのかわかりませんが、山本屋の主人とお花は泣く泣く首を縦にふったとのことです。
この縁談話は「向島の唐人お吉」として評判になったとのことです。
これほどまでに美人の家系なのですから、平成の御代の「美人看板娘」がきっといるはずです。桜餅と併せて是非、看板娘を探しにいきましょう。

お店の詳しい情報は山本屋さんのHPを参照してください。定休日にご注意を!
http://www.sakura-mochi.com/index.php

お江戸墨堤・家光公名付けの「長命水」【向島・長命寺】





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お江戸・墨堤三囲の神~三越三井グループのご守神を祀る~【墨堤・向島三囲神社】

2010年11月02日 10時29分11秒 | 墨田区・歴史散策
隅田川墨堤の向島側を歩くと、江戸の風情を感じさせてくれる寺社名刹が適度な距離を置いて点在しています。
ご存知のように向島七福神のルート上にあるのがこの三囲神社(みめぐりじんじゃ)で、大国神、恵比寿神を合祀しています。

大国神、恵比寿神の祠

七福神巡りを向島百花園の福禄寿から始めると、白鬚神社(寿老人)、多聞寺(毘沙門天)、長命寺(弁財天)、弘福禅寺(布袋尊)と巡り6番目の大国神と7番目の恵比寿神にあたるのが、この三囲神社です。弘福禅寺からは向島花街らしい響きの「検番通り」を牛嶋様に向かってまっすぐ進んでくるといいでしょう。検番通りに沿って歩いていると、かつての花街を彷彿とさせるような粋な造りの料亭がまだ現役で頑張っている姿を垣間見ることができます。向島という粋な響きが未だに生きているんだなあ、と感じる瞬間です。料亭街の雰囲気が薄れてくる頃、右手に真新しい三囲神社の鳥居が現れます。

三囲神社の鳥居

創建は定かではありません。文和年間(1353~1355)に、近江の三井寺の僧源慶の霊夢に感応して建立されたと言われています。
尚、「三囲」(三圍)と書いて「みめぐり」と読んでいます。社伝によれば、前述の源慶によって当社が建立された時、一つの壷が土中から発見され、その中から稲を担いだ翁像が出てきたと言います。同時に白い狐が現れて、掘った穴の周りを三度回ったので「三囲稲荷」と言うようになったそうです。
実は当社の祭神は翁でも狐でもなく、「宇迦御魂の命(うかのみたまのみこと)」で近世の田の神なのです。

社殿
三囲神社鳥居と参道

この神社を有名ならしめた歴史の中の出来事が一つあります。
時は元禄6年(1693)の頃。この年は大変な日照りで、里人たちは6月29日にこの社前で雨乞いの行事を行っていました。そこに通りかかったのが、あの芭蕉の弟子で芭門十哲の一人である「宝井其角」とその門人の白雲でした。そこで白雲が其角に雨乞いの句を進めると、其角はすらすらと句を詠んだのです。
「夕立や 田をみめぐりの 神ならば」と。
この句を詠んだ日には残念ながら雨は降らなかったのですが、なんと翌日は雨降りとなったことから、たちまちこの向島の三囲神社がお江戸の名所になってしまい、多くの参詣者で賑わったといいます。
尚、この句には暗号が隠されています。五、七、五のそれぞれの頭の文字をつなげると「ゆたか」という言葉になります。其角はおそらく雨を降らせてくれれば、きっとこの在は「ゆたか」になるはずという気持ちを込めたのではないでしょうか?この句を刻んだ石碑が参道の右手に置かれています。

其角の句碑

そして面白い話がもう一つこの神社にはあるのです。
この其角の雨乞いの霊験にいたく感じ入ったある江戸時代の豪商がいたのです。その豪商はなんとあの三井家なのですが、三井家は江戸における守護神として当社を崇め、享保元年(1716)には社地の拡張、社殿の造営を行い、ほぼ現在の姿に整えています。なお、今も年三回は三井関連会社による祭典が執行され、また三越の本支店に当神社の分霊をまつっているのは、神社と三井家の関係を物語るものにほかなりません。
参道を進み、社殿の手前の敷地には三越の屋号を刻んだ大きな石と三越デパートの入口に必ず置かれているあのライオンの像が置かれています。

越後屋の屋号碑
三越のシンボル「ライオン像」

境内の一番奥(隅田川側の裏口近く)には「顕名霊社(あきな)」という、お宮さんがあって、鉄柵で囲われています。この顕名霊社は、三井家の開祖とされる三井高安を祭っているとされています。ようするに当社は三井家の氏神様なのですね。ちなみに、「三囲」の「囲」から口(くにがまえ)をとると、三井神社になるわけで、偶然にしてはできすぎのような気もしますが……。

顕名霊社

もう一つ、本殿の裏におもしろい形の鳥居が置かれています。一瞬、「何、これ」といった代物ですが、実は「三柱鳥居」と呼ばれています。鳥居としての本来の役割を担っているのかい?と思わざるを得ない形です。しかも鳥居の脇には「三井邸より移す」というプレートが付けられており、この「三柱鳥居」が旧財閥の三井家から寄贈されたものであることが示されているということは、やはり「三」繋がりの賜物か?

三柱鳥居

境内にある末社の中でも、もともと越後屋に祀られていた大黒・恵比寿神は、隅田川(向島)七福神として名高く多くの参詣者を集めています。また境内に置かれているたくさんの石碑の中でも夕立塚、三蝶の碑、宗因白露の碑、朱楽菅江辞世の碑、川柳の諸碑、萩廼家鳥兼の碑等々は一見の価値があります。

また、この神社は江戸時代には数あるあるお稲荷さんの中で、最も名を知られたお稲荷さんの一つだったようです。境内にはあちこちに「お狐さん」の像が置かれています。「お狐さん」にまつわるお話が当社には伝わっています。
時は元禄のころ、この三囲稲荷の白狐祠を守る老夫婦がいて、祈願しようとする人が老婆に頼み、田圃に向かって狐を呼んでもらうと、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいづれかへ姿を消してしまうという。老婆以外の人が呼んでも狐はけっして現れることがなかったといいます。俳人其角はそのありさまを「早稲酒や 狐呼び出す 姥が許」と詠んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を慕って老夫婦の石像を建て、今でも境内に祀られています。

老夫婦の石像

特に社殿の前に置かれている一対のお狐さんのお顔をとくとご覧になってみてください。こんな顔をしたお狐さんはあまり見た事がありません。なんと目が垂れ、まるで笑っているようなお顔立ちです。このお狐さんのことを「三囲のコンコン」さんと呼んでいます。「目尻のさがった温和な表情をここいら辺の職人言葉で「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」と言ったそうです。

みめぐりのコンコンさん

ともあれ、なんともさまざまな言い伝えが残る有名な神社なのですが、特に祭礼がないかぎり静かな雰囲気が漂う摩訶不思議な神社です。

お江戸墨堤・三囲神社は三井越後屋の守護神を祀る





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お江戸・墨堤向島、旧寺島村総鎮守・白髭大神境内【お江戸・向島】

2010年10月29日 22時29分04秒 | 墨田区・歴史散策
向島百花園からわずか250mほどの距離に鎮座する由緒ある神社、それが「白鬚神社」です。向島では最も古い由緒ある神社の一つで、かつてここが寺島村と呼ばれていた頃の総鎮守の格式がありました。
とは言っても、現在の白鬚神社の規模はそれほど立派なものではありませんが……。

 


祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)で、国土の神・道案内の守神であり、隅田川沿いの道祖神の役割やお客を導き案内する神として信仰を集めてきたようです。

お客様を導き案内をしてくれるという信仰からか、境内に置かれている狛犬の台座にはこんな方々の名前が彫られているのを見つけました。



吉原の妓楼の主人である松葉屋半衛門、浅草山谷の一流料亭「八百善」の主人である八百屋善四郎の2名の名が狛犬の寄進者として刻まれています。この狛犬には文化3年(1806)の年号が刻まれています。

 


八百善は江戸時代の宝暦・明和の頃に有名になった高級料理店です。特に「茶漬け1両2分」の噺は有名で八百善の語り草となっています。
それはこんな噺です。あるとき2人の食通が八百善にやってきて極上の茶漬けと香の物を所望したところ、半日ほど待たされて代金1両2分を請求されたという噺なのですが、これには次のような理由があったのです。
香のもので出した粕漬けには、まだ春には珍しい瓜と茄子を使いました。これは亀戸の村で特別に作らせたもので、生ゴミを温床にして油紙で覆い、炭火で保温するという方法で栽培したもの。そして極上の茶にあう良質の水を求めて玉川まで水汲みに走らせたといいます。さらには米は越後の選りすぐり米。だから代金が1両2分なのです。

またこの神社にはこんな武勇伝が残っています。
時は大正6年の例大祭、神輿をかつぐ若い衆は血気にはやって、隅田川を押し渡り日ごろから憧れていた吉原へと繰り込んでいきました。そして当寺、最大の妓楼「角海老」へ獅子頭を振りたてて舞い込んでしまいました。
と言っても、酒の勢いと若者意識から妓楼・角海老の中でさんざん暴れ回ってから引き上げたため、大問題へと発展してしまいました。この結果、これ以降は獅子舞の行事は中止されることとなったとのことです。

尚、当白鬚神社は向島七福神の「寿老人」を祀っています。
お正月の七福神巡りの頃は、百花園とともに沢山の人出で賑わいます。





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お江戸・風流向島、文人墨客の庭園「向島百花園」【お江戸・向島】

2010年10月29日 21時26分47秒 | 墨田区・歴史散策
世紀の電波塔「スカイツリー」のお膝元、東向島駅からわずかな距離に江戸時代から文人墨客に愛され、維持されてきた名園があるんです。その名を「向島百花園」といいます。

百花園入口
百花園内の木戸

向島百花園は江戸時代の文化2年(1805)頃、 江戸日本橋で骨董屋を営んでいた佐原鞠塢(さはらきくう)という粋人が向島寺島村の元旗本、多賀氏の屋敷跡約3,000坪を買取り、鞠塢と親交 の深かった当寺の超一流の文化人たちの協力を得て、彼ら文人らしい趣き豊な庭園として創設したものです。
園内には七福神の福禄寿を祀る祠があり、毎年1月の七福神巡りではたくさんの人出で賑わいます。(ご開帳は1/1-1/7)

福禄寿の祠

昭和8年 (1933) 2月 国の 「名勝」に指定され、 昭和13年に(1938) 当時の所有者から東京市に寄付されました。 戦災で石碑以外は全て焼失しましたが、 同24年に復元、同53年10月文化財保護法による「名勝及史跡」の指定を受けています。
庭園の特徴は、芭蕉の句碑をはじめ20数基の石碑が園内に点在し、大名庭園のような築山、八景などの造園手法ではなく、江戸の粋な文人趣味の基に作庭されむしろ素朴さを感じさせてくれます。

10月末の東京はどこを見てもまだ本格的な秋の装いではないのです。ここ向島百花園の木々の葉もまだ鮮やかな緑を保ち、紅葉、黄葉、落葉の趣きはもう少し先になるような気配。

園内では最も有名な「萩のトンネル」の最盛期は逸してしまい、花弁は落ちてしまっていましたが、枝と葉が萩のトンネルの名残りを感じさせてくれました。

 


またここ百花園はいつの季節でも、その季節ごとの「七草」を愛でることができるという良さがあります。

平日の百花園は人影もまばらで、秋の風にそよぐ木々の枝葉の揺れる音と園内の小鳥のさえずり、そして園内の小さな川の流れの水音が心地よく耳に伝わってきます。
園内からは間近に聳えるスカイツリーの姿が、木々の間から見え隠れし、風流と現代が共存しています。

 


園内の一角に売店があるのですが、このお店はこの庭園をつくった佐原鞠塢の子孫の方が、東京都公園協会から特別に許可され営業しているとのことです。

売店
ヘビウリの棚

向島百花園からのお勧め散策コースとしては、近くの白髭神社を詣でた後、少し歩きますが言問橋へ。長命寺の桜餅、言問団子を楽しみ、長命水の長命寺、黄檗派の名刹「弘福禅寺」、三囲神社そして牛嶋神社を巡り、スカイツリーを終着点としてみてはいかがでしょうか?





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