大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸の時代からつづく墨提の甘味老舗・長命寺の桜餅「山本屋」さん余話【お江戸墨提・向島】

2010年11月02日 13時08分28秒 | 墨田区・歴史散策
墨提の寺社巡りは現代人にとっても、気軽に遊山を楽しめる絶好の場所ではないでしょうか。江戸時代にはご内府からさほど離れていない場所で、且つ船でのアクセスが唯一の訪問手段であったことから、大店の主人の隠れ家として、ある種の別荘地的な役割を担っていたのが向島だったようです。春夏秋冬、それぞれの季節毎に美しい景色が広がり、通人や粋をきどる人たちの憧れの地、それが向島です。

そんな向島には江戸時代から愛された甘味の老舗があります。それも寺社巡りで疲れた体を休めるのにちょうどいい場所にあるんです。
浅草側から歩いてくると、かつての水戸家蔵屋敷があった隅田公園そして隣接する牛嶋神社を抜けて、検番通りへと入ると三囲神社。三囲の神を参詣し、歩を進めると弘福禅寺と長命寺に至ります。
一方、多聞寺を起点とする北側からのルートは向島百花園、白鬚神社を巡り、歩行距離のある長命寺に至るころにはきっと小腹がすいていることでしょう。

桜餅の山本屋さん外観

こんな場所にある甘味処は隅田川ほとりに店を構えています。長命水で名高い「長命寺」を参拝後にお勧めしたいのが「桜餅」の山本屋さんです。
長命寺さんのちょうど真裏に位置しています。長命寺の裏木戸が開錠されていれば、そのまま墨堤へと上ると山本屋さんの脇に出ることができます。もし裏木戸が開いていない時は、お寺の正門を出て、左へ進み道なりに墨堤へ進んで行くと山本屋さんの正面にでることができます。

この山本屋さんの歴史を少し紐解いてみましょう。
創業者は下総、銚子の山本新六という御仁。元禄4年(1691)の頃、職を求めて江戸へやってきたのですが、職も無くやむなく長命寺の寺男になり、山門脇に小屋を建て門番を務めていたようです。
人生何が幸いするか知れないもので、享保の時代になり、吉宗公の計らいで大川(隅田川)の土手に桜が植えられ、毎年開花の季節には多くの花見客で賑わうようになったのです。そこで山本新六はふと思いつき、桜の落ち葉をかき集めて、醤油樽に漬けこみ、餅を包んで売り始めました。すると、風味よく、甘さも満点との評判が高まり、たちまち「墨提の桜餅」として江戸の庶民たちの間で名物となったという話が伝わっています。ですから創業以来、280年余りの歴史を持っている老舗なのです。

また江戸の洒落話の中にこんな記述があります。
ある時、田舎者が山本屋さんで桜餅を「上包みの葉と一緒に食べていたそうな」。さっそくそれを見ていた通行人が「そりゃ、お前さん。皮をむいて食べるんだよ。」と教えたところ、田舎者は「ほお~、そおかい。」と隅田川(大川)の方を向いて食べ始めたをいう話なのですが、この洒落の意味はご理解いただけますか?

名物「桜餅」

味の良さもさることながら、実はこの山本家は美人の家系としても非常に有名だったようです。
時は幕末の頃、安政元年(1854)若くして老中に昇りつめたあの阿部正弘の本当か、嘘かわからない話なのです。正弘が幕閣に入って間もない頃、英才でもあり、芸能にも秀でた彼は、江戸三座の控え櫓の一つ、河原崎座で興業中の新狂言「桜餅屋の娘であるお豊を物語りに組み込んだ狂言」を見たらしいのです。それ以来、正弘はお豊を贔屓にしたことで、山本屋さんはますます商売が繁盛したという言い伝えが残っています。おそらく老中がわざわざ向島くんだりまで餅を食べに行った訳ではないらしく、逆にお豊を屋敷に呼び付けたのだと思われます。と言うと、つい「手込めにしたのでは?」なんて無粋な考えを巡らせてしまうのですが、それは早計で当寺は大名や旗本が自分の屋敷へ芸者や狂言師を呼ぶことはごく普通のこと。酒興を添えた程度で、お豊もその程度の「贔屓」関係だと考えられます。

そして時が移り、明治に入ってからのお話です。これも「本当かいな?」と思うような話です。
ご維新後、三条実美、岩倉具視など新政府のお偉方が、当時のオランダ公使と隅田川の舟遊びに誘ったそうな。
柳橋から大川へと屋根船をだし、両岸の景色を楽しんだのですが、折りしも向島の春たけなわの頃、墨提の桜の美しさにオランダ公使は感嘆の声をあげたのです。この遊覧のルートには弘福禅寺や長命寺の参拝も含まれ、もちろん名物「桜餅」の接待も組み込まれていました。
公使一行は山本屋さんの緋毛せんの縁台に腰を下ろし、しばしの休憩を楽しんでいましたが、公使は餅には見向きもせず、接待に出た当時の看板娘「お花」に見とれ、ついには「ひと目惚れ」をしてしまったのです。

公使は早速、お花を妻か妾に所望したいと言い出す始末。父親の山本屋に交渉したがとてもとても応じるわけにはいかないと…。
そこで三条実美の出番です。
「山本屋、こう考えてくれんか?日本が悲惨な戦争もせず、文明開化の世を迎えられたのは、オランダの助力があったからじゃ。それを話して娘に納得させてもらえぬか?」
こんな理由が通るわけではなく、お花はがんとして聞き入れず、強硬に拒みつづけました。
そしてこんどは岩倉具視の出番となります。
「お国のためと思って承知してくれ。昔からお主のためなら喜んで命を捨てたものもいる。」と芝居がかった台詞で懸命に口説いたのです。
これが効を奏したのかわかりませんが、山本屋の主人とお花は泣く泣く首を縦にふったとのことです。
この縁談話は「向島の唐人お吉」として評判になったとのことです。
これほどまでに美人の家系なのですから、平成の御代の「美人看板娘」がきっといるはずです。桜餅と併せて是非、看板娘を探しにいきましょう。

お店の詳しい情報は山本屋さんのHPを参照してください。定休日にご注意を!
http://www.sakura-mochi.com/index.php

お江戸墨堤・家光公名付けの「長命水」【向島・長命寺】





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