先日、都内及び近郊の歴史散策のネタ探しをしていたところ、なんと千葉県の船橋市に「日本一小さな東照宮」があるというではありませんか。船橋と神君家康公との繋がりも興味が湧くところではありますが、それ以上に「日本一小さい」と強調していることに居たたまれず、早速でかけることにしました。
船橋東照宮鳥居
久しぶりに気温10度を超え、風もない小春日和の中、東京メトロの東西線に乗り一路西船橋へと向かいます。西船橋でJRに乗り換えると次の駅が船橋です。東京の東に位置する江東区に住む私にとっては、西船橋まではものの20分程度の距離です。
賑やかな西船橋駅を下りて、海側に開けた繁華街をしばらく南下します。京成線のガードをくぐるとすぐ左に折れる狭い路地が現れます。この路地がかつて「御殿通り」と呼ばれていた道なのですが、なぜ御殿通りと呼ばれていたのでしょうか。
実はここで神君家康公とこの御殿通りが繋がってくるのです。開幕後、家康公は2年足らずで征夷大将軍を息子である秀忠に譲り、その後は大御所として二代将軍秀忠公の政を後見しつつ、駿府と江戸をしきりに往還する日々を過ごしていたようです。
将軍職を秀忠公に譲ったものの、元気そのものの家康公は秀忠を連れて大好きな鷹狩を行いながら、地方の巡検を精力的に行っていたようです。そんな鷹狩の場所は江戸川を越えた下総、そして更には上総にまで足をのばすのですが、当然のことながら大御所や将軍が休息や宿泊する場所をそのルート状に設けなければなりません。その場所のことを「御茶屋」又は「御殿」と名付ていました。
家康公は慶長19年(1614)に上総土気(とけ)そして東金で鷹狩を挙したことが記録で残っています。そして翌年の元和元年(1615)に家康公は再び上総東金へ鷹狩に出掛けるのですが、その時に船橋に設けられた「御殿」に宿泊しています。家康公が船橋御殿に宿泊されたのは、この時が最初で最後だったのですが、秀忠公はその後もたびたび船橋の御殿で宿泊されていたようです。
そんな歴史をもつ船橋御殿へと通じる道筋が現在でも「御殿通り」と呼ばれ残っているのですが、かつて御殿があったと思われる場所は、民家が連なる住宅地へと変貌しています。
尚、徳川将軍家の上総東金での鷹狩は家光公の御代である寛永7年(1630)頃には終わり、船橋御殿の敷地は船橋大神宮の宮司に与えられ、その後開墾されて畑となったと伝えられています。
神君家康公がこの地、船橋御殿で宿泊されたという縁があるがゆえに前述の船橋大神宮の宮司が貞享年間(1684~1687)に船橋御殿の跡地に造ったのが、船橋東照宮なのです。
住宅街の中につづく御殿通りを進んでいくと、特に東照宮を指し示す道標も見当たりません。おそらく誰もが道に迷うのではと思いつつ、私も道を折れずに直進し行き過ぎてしまいました。すぐに気がついて戻ると、自動販売機の陰に小さな道標が立っているではありませんか。
路地奥の船橋東照宮
やっと辿り着けるという思いでさらに細い路地を進んでいくと、前方にそれらしい鳥居が見えてきます。「日本一小さい」ということは最初からわかっていることなのですが、それにしても本当に小さいのです。敷地もさることながら、拝殿なんてものじゃなく、小さな祠といった感じです。
一応東照宮の社殿
ただ救われるのは徳川将軍家の葵のご紋が入った幕が祠にかかっていること。東照宮といえば、権現造りの御社殿をイメージするのですが、ここの東照宮はお稲荷さん程度の祠で極彩色の社殿なんて到底イメージできるものではありません。
東照宮
東照宮
祠の中を覗いてみると、なにやら文章が見えます。その文章はまごうことなくあの神君家康公の有名な遺訓。「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。 不自由 を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。」
猫の額ほどの境内の一角にある手水舎の柱に「東照大権現家康公、徳川二代秀忠公に感謝します」と書かれた木製の札が立てられています。
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船橋東照宮鳥居
久しぶりに気温10度を超え、風もない小春日和の中、東京メトロの東西線に乗り一路西船橋へと向かいます。西船橋でJRに乗り換えると次の駅が船橋です。東京の東に位置する江東区に住む私にとっては、西船橋まではものの20分程度の距離です。
賑やかな西船橋駅を下りて、海側に開けた繁華街をしばらく南下します。京成線のガードをくぐるとすぐ左に折れる狭い路地が現れます。この路地がかつて「御殿通り」と呼ばれていた道なのですが、なぜ御殿通りと呼ばれていたのでしょうか。
実はここで神君家康公とこの御殿通りが繋がってくるのです。開幕後、家康公は2年足らずで征夷大将軍を息子である秀忠に譲り、その後は大御所として二代将軍秀忠公の政を後見しつつ、駿府と江戸をしきりに往還する日々を過ごしていたようです。
将軍職を秀忠公に譲ったものの、元気そのものの家康公は秀忠を連れて大好きな鷹狩を行いながら、地方の巡検を精力的に行っていたようです。そんな鷹狩の場所は江戸川を越えた下総、そして更には上総にまで足をのばすのですが、当然のことながら大御所や将軍が休息や宿泊する場所をそのルート状に設けなければなりません。その場所のことを「御茶屋」又は「御殿」と名付ていました。
家康公は慶長19年(1614)に上総土気(とけ)そして東金で鷹狩を挙したことが記録で残っています。そして翌年の元和元年(1615)に家康公は再び上総東金へ鷹狩に出掛けるのですが、その時に船橋に設けられた「御殿」に宿泊しています。家康公が船橋御殿に宿泊されたのは、この時が最初で最後だったのですが、秀忠公はその後もたびたび船橋の御殿で宿泊されていたようです。
そんな歴史をもつ船橋御殿へと通じる道筋が現在でも「御殿通り」と呼ばれ残っているのですが、かつて御殿があったと思われる場所は、民家が連なる住宅地へと変貌しています。
尚、徳川将軍家の上総東金での鷹狩は家光公の御代である寛永7年(1630)頃には終わり、船橋御殿の敷地は船橋大神宮の宮司に与えられ、その後開墾されて畑となったと伝えられています。
神君家康公がこの地、船橋御殿で宿泊されたという縁があるがゆえに前述の船橋大神宮の宮司が貞享年間(1684~1687)に船橋御殿の跡地に造ったのが、船橋東照宮なのです。
住宅街の中につづく御殿通りを進んでいくと、特に東照宮を指し示す道標も見当たりません。おそらく誰もが道に迷うのではと思いつつ、私も道を折れずに直進し行き過ぎてしまいました。すぐに気がついて戻ると、自動販売機の陰に小さな道標が立っているではありませんか。
路地奥の船橋東照宮
やっと辿り着けるという思いでさらに細い路地を進んでいくと、前方にそれらしい鳥居が見えてきます。「日本一小さい」ということは最初からわかっていることなのですが、それにしても本当に小さいのです。敷地もさることながら、拝殿なんてものじゃなく、小さな祠といった感じです。
一応東照宮の社殿
ただ救われるのは徳川将軍家の葵のご紋が入った幕が祠にかかっていること。東照宮といえば、権現造りの御社殿をイメージするのですが、ここの東照宮はお稲荷さん程度の祠で極彩色の社殿なんて到底イメージできるものではありません。
東照宮
東照宮
祠の中を覗いてみると、なにやら文章が見えます。その文章はまごうことなくあの神君家康公の有名な遺訓。「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。 不自由 を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。」
猫の額ほどの境内の一角にある手水舎の柱に「東照大権現家康公、徳川二代秀忠公に感謝します」と書かれた木製の札が立てられています。
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