2月2日(金)、尾上小学校3年生に「加古川飛行場(尾上飛行場)」の話をしてきました。
時間が短くて、じゅうぶん話をできなかったのが少し心残りです。
が、一つ気になったことは小3で無理もないのですが、児童は戦争中小学校の横に飛行場があったということをほとんど聞いたことがないことでした。
地域の戦争のこと(飛行場のあったことなど)は語り継がれていないようです。
「ひろかずの日記」でも、少しだけ加古川(尾上)飛行場について少しだけ紹介しておきます。
特攻の訓練飛行場となる
昭和20年、日本は敗戦が決定的になりました。
加古川飛行場は、特攻隊の訓練飛行場に様変わりしました。
若い隊員に特攻志願書が配られました。
そこには、「熱望」、「希望」、「志望」とあり、「希望しない」という項目はありませんでした。
全員「熱望」を選んでいます。以後、訓練は特攻用に変わり、淡路島方向から低空で急降下をするものでした。
昭和25年5月25日、加古川飛行場で行われた特攻の出撃式のようす(写真)が、はじめて公開されました。写真に12名の若者が写っています。全員死亡でした。
加古川飛行場方飛び立つ前日、中村屋旅館(国道2号線と県道小野線の交差点から北へ300メートルの西側)で隊員らは一夜を過ごしました。中村屋旅館は、戦時中陸軍の指定旅館でした。
特攻隊員の教官のUさん(故人)は、生前「すべてが戦争を中心に動き、拒否することの出来ない時代があったことを知って欲しい」、そして「二度と戦争はしてはならない」と訴えておられました。(no102)
*写真:特攻の出陣式
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます