戦略と戦術では、どちらがより大きな局面を意味しているのか?
などということを、最近というか少し前に考えた。言葉の意味としては、戦略の方がより大きな局面を、あるいは言い方を変えると、戦術の方はより具体的な戦いの場でとる作戦を指すようである。
大学生の時代に、ある友人からこの質問をされて(問題を出されて)、私は「戦術>戦略」と応えたのだった。「正解」は、「戦術<戦略」であると、友人から言われ、少しむっとした私は自分の考えを正当化するような理屈をこねた、そんな記憶がある。
その後、ある文章を読んで、もろにこの主題が対象となっていて、やはり「戦術<戦略」という考えの方が正しいことを知り、へりくつをこねて友人に反論したかつての自分を恥じ、同時に友人にすまない気がした。
が、人間というのは、その時々に考えが変わるもので(笑)、現在はやはり「戦術>戦略」という考えの方が正しい(あるいは的確な)のではないかと考えている。
ちなみに、上で触れた、「戦略と戦術をめぐるある文章」とは、1993年時にブルデューが日本に来日した際に、広松渉と今村仁司がブルデューと行った対談で、ブルデューの戦略概念に対してしていた問いかけのことである。つまり、「ブルデューが言う『戦略』というのは、実は戦術のことではないか?」といった質問をしていた―ちなみに、戦略はstratégie で戦略はtactique。
この問に対するブルデューの解答は忘れてしまったが、彼が生前に遺した最後の理論書とも言える『パスカル的省察』(未邦訳)では、自身の戦略概念に対して、調査対象を分析する中で産まれてきた概念であり、哲学的な時限で云々するべきものでないといったことを言っていた。まあ、上の広松・今村の対談のことに文句を言っているのではないと思うが。
ブルデューがすべて正しいわけではないが、言葉の意味をそのまま踏襲して「戦術<戦略」という図式を現実に当てはめるのは、不適格ではないのかと、少し前から考えている。つまりは、戦術の方が戦略よりもより大局的な局面を決定するのでないか? こう最近は考えている。
なぜ、そうした考えの転換が起こったかについては、また次回のエントリーででも
ブルデューの『パスカル的省察』
などということを、最近というか少し前に考えた。言葉の意味としては、戦略の方がより大きな局面を、あるいは言い方を変えると、戦術の方はより具体的な戦いの場でとる作戦を指すようである。
大学生の時代に、ある友人からこの質問をされて(問題を出されて)、私は「戦術>戦略」と応えたのだった。「正解」は、「戦術<戦略」であると、友人から言われ、少しむっとした私は自分の考えを正当化するような理屈をこねた、そんな記憶がある。
その後、ある文章を読んで、もろにこの主題が対象となっていて、やはり「戦術<戦略」という考えの方が正しいことを知り、へりくつをこねて友人に反論したかつての自分を恥じ、同時に友人にすまない気がした。
が、人間というのは、その時々に考えが変わるもので(笑)、現在はやはり「戦術>戦略」という考えの方が正しい(あるいは的確な)のではないかと考えている。
ちなみに、上で触れた、「戦略と戦術をめぐるある文章」とは、1993年時にブルデューが日本に来日した際に、広松渉と今村仁司がブルデューと行った対談で、ブルデューの戦略概念に対してしていた問いかけのことである。つまり、「ブルデューが言う『戦略』というのは、実は戦術のことではないか?」といった質問をしていた―ちなみに、戦略はstratégie で戦略はtactique。
この問に対するブルデューの解答は忘れてしまったが、彼が生前に遺した最後の理論書とも言える『パスカル的省察』(未邦訳)では、自身の戦略概念に対して、調査対象を分析する中で産まれてきた概念であり、哲学的な時限で云々するべきものでないといったことを言っていた。まあ、上の広松・今村の対談のことに文句を言っているのではないと思うが。
ブルデューがすべて正しいわけではないが、言葉の意味をそのまま踏襲して「戦術<戦略」という図式を現実に当てはめるのは、不適格ではないのかと、少し前から考えている。つまりは、戦術の方が戦略よりもより大局的な局面を決定するのでないか? こう最近は考えている。
なぜ、そうした考えの転換が起こったかについては、また次回のエントリーででも
ブルデューの『パスカル的省察』