a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

言語について:それなりの場ではそれなりの言葉を

2008年07月19日 | 言語
 前回は私のゼミでのさんざんな発表の話をしました。ただ、言い訳的に補足しておくと、後日その発表原稿を仏人の友人に見せると、「何でこの文章でだめなの?」と言っていた……。(ちなみにこの彼が、後になって「母語としての仏語の難しさ」を私に吐露してくれた友人でした)
 まあ日本語でも同じことありますが、「外国人の日本語」というレベルと、「聞いていて(読んでいて)苦痛でない日本語」というのは、格段の差があって、彼らには後者がわからないという訳です。

 これは後日談ですが、留学の二年目になって、友人になったDEAの仏人学生に同じ文章を見せたのですが、彼女は「あ~、これならダメ。先生が苛立ったのも納得」と一言。その言葉に落ち込んだのですが、ただ、「どこが悪いか直せる?」と聞いたところ、「(仏語の)意味はわかる文章だから、直すのにはそんなに時間がかからない」と、これもまた一言。そこで、まあ、光明が差し込んできたわけです。

 この彼女は、日本の哲学を専攻しているのですが、後になって「共同研究」らしきものをしてゆくいことになります。

 いずれにしても、こうした一連の経験で感じたのは、同じ仏語でも人の間でこんなにも差があるのだということでした。これを「ブルデュー的現実」と言って良いのかもしれません。

 それから、この9月から留学をし始めている人もいるかもしれませんが、「学業上の目的達成」のためには、的確なアドバイスをもらえる友人をさがすことが重要と言えるかもしれません。エントリーの初めに触れた私の友人は、友人としては素晴らしい人間でしたし、彼にも非常に親切にしてもらいました。が、他方で、学業上のアドバイスを彼からはもらえなかったのは事実です。
 他方で、母語としての仏語の難しさや、彼は父親がトルコからの移民なのですが、IDをめぐる微妙な心情を、吐露してくれた彼には、非常に感謝しています。彼のお陰で、大学の中の仏語が「正統な仏語」という勘違いをせずにすみました。

 ただしもう一つ。ゼミの先生が、私に対しても、仏語の要求水準を下げ無かったこと(それでもかなり譲歩していたんですけどね、彼には私のレベルが耐えられなかったみたいです 苦笑)、これは「それなりのことを言う為には、それなりの文体で」という文化・伝統が背景にあった為だったと、私は考えています。つまり、「それなりの場ではそれなりの言葉を使う」というのは、語学のレベルの問題ではなく、守らねばならないルールなのだと。

 あるいは、言葉に限らず、服装にもおそらく言えるのでしょうが、「それなりの場に行くときには、それなりの装いで」というのは、とりわけ、守らねばならない義務なのでしょう。この現実を、私以上に痛感されている方も多いはずです。


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