a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

現代思想か? 社会科学か?

2006年12月04日 | 理論
 現代思想的な用語や研究について、私には、ある種の周期のようなものがある。ある時期には哲学的な議論が好みであったり、あるいは現代思想的な用語を無性に使いたくなることがある(同時に、そうした時期には、現代思想的な用語に置いて議論を立てることが、社会的に意義があるように思われたりする)。また別の時期には、例えばデリダの(に関する)議論などを聞くと、「そんな『衒学的なこと』を言っているだけで意義があるのか?」と、嫌悪したりする時もある。そうした時期は、たいていの場合、「社会科学的な視角」の方が、社会的に意義があるように思われる時期であったりする。

 実際のところは、どちらが正しいというものではなく、私自身、ある種、気分の波のようなものの中で、どちらかを必要と感じたり、あるいはうんざりしたりする。この二つの立場について言えば、どちらが正しいというものではなく、そのどちらもが必要なのだと思う。ただ、いずれの立場・手法を取るにしても、その長所と短所、意義と限界を知っている必要があると思うが。

 ただ、私の場合、「間が悪い」のは、「現代思想的な言説を扱う環境や場」にいる時はそれに違和感を感じ。で、逆に「社会科学の場」では(そうした場があれば、だが)、それに違和感を感じてしまう。で、そうした「場」にそぐわない質問などを敢えてしてしまい、顰蹙を買うこともあったりするヽ(´・`)ノ フッ…(笑)。

 こんなことを敢えてこの場で言うのは、これから、デリダとヴィエヴィオルカの対談を読もうと思っているからでもあるのだが。「なんでこの二人が?」と、不思議に思う。まあ、二人ともEHESS(社会科学高等研究院)所属だから、あまり不思議と言うこともないのだが。ちなみに、トゥレーヌとコレージュ・ド・フランスに移る前のブルデューもこのEHESSに所属していたのだが、二人のゼミは同じ時間に開かれていたらしい(このあたりも微妙なものがあるような気がする)。この種の、無関心を装おう仏的インテリゲンチャの文化性向についてデリダはあるところの対談で語っていたことがあるが。

 ブルデューとデリダについてもかなり同様の側面があるように思われる。他方で、ブルデューが「社会科学社会科学しているか?」というと、私にはそうは思われない。最後の理論書となったmeditations pascaliennesでは、執拗なまでに哲学的な言説のあり方(正確には、「哲学に代表される」そうした言説のあり方)をスコラ学と非難するのだが、と同時に、おそらくは自らの病を意識して執筆したであろうこの著作でそこまで執拗に哲学を追いつづけた(批判し続けた)のは、それが彼にとって、他方で知的源泉を与えていたからに他ならない。

 あるいは、これは、院生時代の同級生が、英に留学した時のエピソードを話していて聞いた話なのだが、ナショナリズム研究の専門家であるその先生が、レヴィナスの倫理について熱く語っていたのだという。彼女曰く、「哲学的な議論が私には理解できなかったけど、彼がwithout reducing the othersと強調していたのが印象に残った」と。他者性を還元しないしない仕方でエスニシティー間の倫理を構築することができれば、それは素晴らしいことだろうと、私も確かに思う。また、それはレヴィナスの倫理学が目指したものなのは事実だけど、、、。

 ただし、私自身は、レヴィナスは実際のところ近代的側面が強すぎて、むしろ他者性を還元してしまう方向に進むのではないかと、思われるけど。あるいは、他者性を還元してしまう西欧的言説との距離感で物を言うのがレヴィナスの持ち味で、それとは別の新しい倫理を作り出すのに適しているとは、思われないような気がしなくもないが。まあ、あくまで「気がする」だけの話なので、そのつもりで読んでください。


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1 コメント

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Unknown (あずま)
2010-08-19 06:13:30
 この辺の話、ちょうどぼくにアクチュアルというか、ヴィヴィオルカも最近、翻訳で読み始めましたし、ナショナリズム研究をしながら、レヴィナスを読んでいました。
 といっても、素人読みなので、そこから何らかの結論が出せるわけでもなく、苦吟していたのですが。
 読んでいると今野さんは、アルチュセールだけでなく、広くフランスの研究事情に詳しいことが分かります。なんだか、ひじょうに助かるというか。
 ソルボンヌはアイザイア・バーリンもいたし、レヴィナスもいたし、おもしろいです。
 レイモン・ポランは一時、リール大学にいて、そこでフーコーに接触しようとしたが、フーコーとは合わなかった、というようなことを、桜井哲夫さんのフーコー入門書で読みました。
 レイモン・ポランは『ルソー 孤独の政治学』が九州大学出版から翻訳されていて、これがひじょうにぼくにはおもしろく思われるのです。
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