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"physique sociale"は、「社会物理学」ではない?

2015年09月08日 | 理論
 なんか、大げさなタイトルをつけてしまったが、それほどたいした話ではない。

 下の、ケトレーの本を読んでいて考えたことである。

Physique Sociale: Ou, Essai Sur Le Developpement Des Facultes de L'Homme, Volume 1
クリエーター情報なし
Nabu Press


 ケトレーの本に言及する前に、一つだけ前提として説明させもらいたいのは、physiqueという言葉について。この言葉には、かつて「自然学」といった、現代の物理学よりも広い学問を指す意味があった。形容詞のphysiqueの現代の用法には、この意味が未だ残っていると思う。

 こちらでも軽く言及しているのだが、ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは、社会秩序のあり方について検討した著書、『政治的社会の自然的かつ本質的な秩序L’ordre naturel et essentiel des sociétés politiques』において、phisiqueという言葉を次のように使っている。

 この本質的な秩序[社会秩序]によれば、守護権力[l’autorité tutélaire:人々の守護の為に服従を課すことができる権力]は、社会の中に、社会によって、設立された社会的で自然的な力(une force sociale et physique)を施行することにある。これは、人間の間に、所有権と自由を保障する為のものであり、諸々の社会の自然的で本質的な諸法則(loix naturelle et essentielles des sociétés)に適合している。
 この力は、社会的力である。なぜなら、それは、それ自体で存在するのではなく、社会の中に置いてこそ、生まれるからである。すなわち、そこにおいて、この力は、諸々の利害と意志の結合によって形成されるからである。
これは、自然的な力(force physique)である。なぜなら、この諸々の意志の結合は、この権威に有利になるように、つまり社会の全ての自然的な諸力(toutes les forces physiques de la société)の結合に有利になるように働くからである。
 これは、社会の中に、そして社会によって設立される。なぜなら、諸々の意志と諸力の結合は、人々が一つの社会体の中で互いに結合した後にしか生まれないからである(Lemercier De La Rivière 1767=2001:163)。

 ここでの用法からわかるとおり、phisiqueは、社会と対比的に用いられている言葉であり、そうした意味では「物理」よりも「自然」の方が、近い意味だと言えるだろう。

 そこで、冒頭で触れたケトレの本である。

 ケトレーは、Physique socialeの第一編、第9章「人間に影響を及ぼす諸原因
で、次のように述べている。

 人間を司る、そしてその諸行動を改良する諸法則は、一般的に、人間の組織、諸制度、知性、裕福さの状態、諸制度、地域的影響、そして常に理解するのが困難なその他の諸原因の結果である。これらのうち、あるものは純粋に自然法則によるもの(physique)であり、他のものは我々の種に固有のものである。実際、人間は自らに道徳的諸力を備えており、これが、我々をして、世界の他の全ての生物に優越することを保証する。……その道徳的諸力によってこそ、人間は諸々の動物から区別される。すなわち、人間は、自らに関係する自然の諸法則を、少なくとも明確な方法で改良する能力を享受する(Quételet 1869=2010: 146)。

 以上の一節を見れば、彼が人間の発展を、動物などを含めた自然との対比において、説明していることがわかる。さらには、「人間の身体的諸性質facultés physiquesの発展」と題された第二編でも、よく知られたように各国の統計を用いつつ、出生率、それへの年齢の影響、気候の影響などが検討されている(Quételet 1869=2010: 155-468)。ここでは、自然と人間を対比するためにphysiqueという語が用いられている。

 ここでのphysiqueは、現代的な意味での「物理」では、一切ないのになんでこれまでphysique socialeは、「社会物理学」と訳され続けてきたのだろうか?

 と、まあ、ここまで偉そうな事を言ってきたが、私自身このことに気づいたのは、本当に偶然であって……。ケトレのこの本を私が読んだ理由は、アマゾンのおそらく在庫一掃セールで、この復刻本が300円以下で売っていたから、安いから購入したのだった(苦笑)。で、手元に来た本をめくっていたら、上のような内容が目に入ってきたのであった。

 それから、上述のリヴィエールの本を読んでいる時に、最近の仏和辞典では、古典を読むのに適しておらず、古い仏和辞典を使っていたところ、physiqueの古い用法に「自然学」というのがあることを見て、そこから気づいただけなのだが……。

 わりと、こうした基礎的・古典的なところで、我々がまだ必ずしも正確には理解していない概念があるのではないかと、私は考えている。そうした正確さを抜きにして、学問を積み上げていって果たして大丈夫なのだろうか? 一抹の不安もあったりする。

 追記
 同じ研究会に参加している藤田さんからは、この主題について、「物理」という訳語、「物の理(ことわり)」という訳語の意味自体に問題があるのではないかと、ラディカルな指摘を頂いた。確かにそういう面も大きいと思う。実際、英語や仏語では、かつてのphysiqueも現在のphysiqueも、用語上の区別はせずに同じ言葉として使われている。つまり両者を含む訳語であるべきだったと。ただし、ここまで定着してしまった「物理」という訳語を換えるのは、かなり難しいと思う。それこそ、大学の学科の名前から換えねばならないので。


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