a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

「工学的思考」

2012年02月29日 | 理論
 私は理論的な研究を主題としているが、昨今は、様々な意味で理論研究に対しても、社会に「役立つこと」が求められる。

 「役立つ」と言っても様々であり、社会運動に貢献すること、政策的な有効性なども「役立つこと」である。

 ただし、「役立つ」からと言ってそれが本当に役立つのかは、別の話である。あえてわかりにくい表現をしたが、短期的に有効なことが、必ずしも長期的に有効なこととは限らない。あるいは、一つの規準から考えて「役立つこと」が、別の規準からするとむしろ「無駄」になることもある。

 以下は、「工学的思考」について少し考えたことである。

 かつてポパーは、台風がいかにして到来しないかを証明する思考と、台風が来る際にいかなる対策をとり・被害を最小限にとどめるかを考える思考を区別し、今後の社会では後者のような思考が重要になると言っていた(厳密に言うと、前者の思考の重要性を否定しているわけではないが)。


 つまり、台風から身を守るためには、実践的な課題に取り組む工学的思考が求められるというわけである。

 こうした考え自体は、一見すると正当に思える。

 が他方で、別の視点から考えると、全く別の事態が現れる。

 非常に深刻な事態なので、この場でその例としてあげることが妥当かどうかは議論の余地があるが、例えば福島の原発の事故のこと。あの事故のことを考えると、地震や津波などの様々な事態について、純粋に自然科学的に地震の到来を検証してみる必要があったのではないか? と、そう考えてしまう。

 原発の建設、電力の需要、等々の人為的な目的を設定し、その目的のために様々な要素を検証や検討をするという「工学的思考」は、どうしても「その目的」に見合うような論証をしてしまいかねない(ただし、実際には「自然科学」にしても、論証などにおいて「目的」を設定するのは不可避なのだが)。

 「人間の役に立つ」といった類の目的であっても、その目的を設定してしまうと、それに適合しないものを排除してしまいかねないのだ。

 「社会の役に立つ知のあり方」というのは、それ自体では誠にけっこうだが、そのあり方について、もう一度考え直す必要があるのではないだろうか。


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