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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

デュルクハイム

2010年05月08日 | 理論
 昨年末にあったある研究会の話である。長い間休眠状態にあった研究会だったが、久しぶりに開催され、ある先生に久しぶりに会った。その方は、最近仏社会学に興味を持たれているようで、そういう話になった。

 そこで話題になったのが、デュルケムについて。デュルケムがユダヤ系であるという話は、日本の社会学でもよく知られている話である。ただ、そこで佐藤さんは、デュルケムの出身がロレーヌであることに注目していた。というか、実際には、アルザス・ロレーヌ出身であるのに、そのことが彼の理論形成に際してなぜ問題にならないのかということが、問題になった(そのときの話題になった)。
 共和制が強い仏においては、各個人は、市民として公共空間においては個人の特性は問われない。それが個人間の公平性の原理となっている、というのが共和制の原理ということになっている。

 ただ、現実の生活は、別で、仏でよくあるのは、人の名前からその出自を推測すること。家族の姓や、その人の名から、出身の地方などを推測するのだが、こうした話がよく会話の中で話題に上る。これは、まあ、「ダブルスタンダード」と言えなくもないが、私は、公共空間で私的属性を隠すからこそ、それに関する問いかけが(そして憶測が)生まれるのだろうと思う。

 で、話は少し飛ぶが、ある時、あるサイトを見ていたら、デュルクハイムという名の街が、独にあることを知った(ちなみにこちら→バート・デュルクハイム - Google マップ)。デュルクハイムの綴りは、Durkeim。独語の読みを、日本語のカタカナにすると、デュルクハイムとなり、仏語読みにするとデュルケムになる。

 ということは、デュルケムは、ユダヤ系であると同時に、その家系の出自は独にあるのではないだろうか。まあ、アルザスやロレーヌの出身であれば、仏では「独系」という形容詞をつけようとすれば、当然つけられることなんだけれど。

 こうした点がデュルケムにおいて顧みられないのはなぜなのか? と、思わなくもない。

 ただ、他方で、留学時代に仏の教養系ラジオ局で聴いたことなのだが、アルザス・ロレーヌでは、戦後急速に独語人口が減る。それだけ仏の国民国家性が強かったということであろうか? ちなみに、元の独系住民は仏の各地に散っていったらしい。(ただ、日本のサイトを調べると、アルザス語復興の動きもあると言及されている。他方で、仏語のサイトを見ると、アルザスの言語問題は、当初、階級問題の方が優先していたという言及も。このあたり、どの視点を取るかによって話も変わってくるのだろう。)


 ところで、また話が変わるが(笑)、そういえば、私の親しい知人の仏人、彼女の父親も、話からすると、この地方の出身だったよう(独語に堪能で、独語の先生だったらしい)。ちなみにその父親も、現在はパリ住まいである。ただし彼の場合は、話によると、小さい頃に家族問題を抱えていたとか。それがパリに移ってきた理由のようだ。やはり現実には様々な問題があるのだ、そう思う。

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1 コメント

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デュルケム (pfaelzerwein)
2010-05-18 06:48:01
実は、昨日フランスからの帰路の車の中で、「ナチのユダヤ人虐殺は分かっていたとする」小学教師の娘の話と、「出合った高齢の紳士にユダヤ人虐殺認知」を問い質したシカゴ大のマスターを持っているバイエルンの山岳ガイドの息子と、「日本の知」や「犬猿の独仏」について話しました。

結論は、「日本におけるマルキズムの歴史的価値」や「体制に対してあまりに飼いならされやすかった社会主義思想」、そして「あまりにも体制に危険な環境政党」と落ち着きました。

高名な学者とワイン街道の町の名前に関連があるかどうかは調べてみなければ分かりませんが、言葉として地元の方言で只単に「デュルケム」と呼ぶので音声学的には全く同じ言葉であるとして間違いないかと思います。
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