この度刊行されたアルチュセールの『再生産について:イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』は、彼がその国家のイデオロギー諸装置概念を提起したイデオロギー論の草稿にあたります。この草稿は、当初、二巻本の大著として計画されたものなのですが、その計画は結局挫折し、そのうちの一巻の内容にあたる原稿のみが残されることになりました。この一巻が、今回刊行されたものなのですが、ここから「抜き出し」として、論文の . . . 本文を読む
今回は社会学の「古典」について(^_^.)。
デュルケムの『社会分業論』は、社会学を学問として確立したはじめての著作、と言うことが出来るでしょう。社会学に興味を持ち始めの人で、何か「古典」を読んでみたいという人、あるいは初期の社会学がいかなる問題関心を持ち、どのように構想されたのかを知るには一番の著作です。
でも、 なにを今更、こんな手あかのついた著作をここで紹介するの?、と思うかもしれ . . . 本文を読む
社会学に対するフーコーの影響は多大なものがあります。しかし、私は、彼の作品は、歴史や社会学のそれとしてではなく、やはり哲学の仕事であり、そうしたものとして読むべきだと考えています。
というのも、彼は『狂気の歴史?古典主義時代における』の冒頭で、「阿呆船」を扱っています。この阿呆船、ルネッサンス(14-16世紀)のラインラント地方の運河で、「狂人」を「積み荷」としていたと、フーコーは言います。 . . . 本文を読む
私が翻訳に参加した、アルチュセールの『再生産について イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』について紹介を続けます。
前に紹介したとおり、この草稿は、「哲学とは何か?」という章から始まります。彼は、この再生産論を始めるにあたり、哲学なるものの本質を見極めることを提起します。というのも、哲学とは、一見すると抽象的な思索の体系であるかのように見られているが、実際には、現実社会に不可分に結びつい . . . 本文を読む
フーコーの「監獄の誕生」、この著作は社会学では、フランスにおける処罰と監視の歴史を「実証的」に跡づけた研究という位置づけになっておりますが、この点に私は違和感を感じております。事実、フーコーは哲学者ですし、フーコーの資料の扱い方は哲学のそれに近いものであって、歴史学のそれとは違っています。
フーコーの仕事は歴史学のそれではない、というこの点は、次のような点でも明らかです。
例えば、『狂気 . . . 本文を読む
わけあってフーコーの『監獄の誕生』を読み返しています。現在から考えてみて、フーコーはどのような意義を持っているでしょうか? この点を考えずにいられません。
フーコーの影響は英米圏における様々な研究にまで及んでいますが、個人的には、もう少しフーコーに忠実に、フーコーを読むべきではないかと感じています。そのことによって、フーコーが抱える弱点も見えてくるからです。というのも、フーコーはその多くの著 . . . 本文を読む
私が翻訳に参加させて頂いた、アルチュセールのイデオロギー論草稿『再生産について』の紹介を続けます。今回は、その編者であるジャック・ビデについて。
この『再生産について』は当初、二巻本の大著として企画されていました。その一巻でアルチュセールは国家の再生産の理論的問題を扱い、そして第二巻で実際の歴史について論じるつもりだったようです。そして、第一巻のみがほぼ「完成稿」として遺稿のなかから見つかっ . . . 本文を読む
社会学における学説研究の意義を理論研究の準備作業として説明しましたが、今日は少し趣向を変えて、将棋の例を取ってみたいと思います。ところで、プロの将棋棋士である羽生善治は、升田幸三の棋譜を良く並べるのだそうです。この升田幸三という人は、大正7年生まれで、昭和54年に引退したプロ棋士なんですが、今からすると30年以上前の棋士です。でも羽生からすると、升田幸三は、すごく現代の将棋に近い感覚で将棋を打っ . . . 本文を読む
翻訳に参加させていただいたアルチュセールの『再生産について:イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』について、その内容の紹介をしたいと思います。前回は目次の途中だったので、今回はその続きを。
第11章 再び「法」について・その現実性、すなわち国家の法的イデオロギー装置
第12章 イデオロギーについて
補遺 生産諸力に対する生産諸関係の優位について
AIEに関する注記
イデオロギーと国家の . . . 本文を読む
私が翻訳に参加させて頂いた、『再生産について:イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』(アルチュセール著、西川長夫他訳)について、宣伝を兼ねて少しずつ紹介をして行ければと思っています。……、で今日は、目次から。
序にかえて──アルチュセール再読への招待 ジャック・ビデ
編集上の注記
生産諸関係の再生産
読者へのまえがき
第1章 哲学とは何か
第2章 生産様式とは何か
第3章 生産諸 . . . 本文を読む
私にとって興味深いのは、著者達のよって立つ価値観と日本社会のそれと思われるものの「差」である。先の引用文の中で、彼らは、house keeping(家事)や、OLが職場で担う役割を、些末な役割と述べ、また、他の場所では、マイノリティー問題(アイヌや在日韓国人・朝鮮人)、そして沖縄問題etcなどを非常に重要な問題だと述べている。
おそらく日本社会を内部から見るわれわれは、逆のことを考えるだろう。 . . . 本文を読む
この社会(日本社会)は「一体性」を持ち、まとまっているのだというレトリックを執拗に説き、このレトリックを堅持することによって物事に対処しようとする社会が、全体としてそれなりに機能してゆくためには、「些末」な役割を割り振られた人々が数多く存在することが必要不可欠なのである。
同じ傾向は、家庭内でも職場内でも見られる。専業主婦になることこそが日本の女性にとって自然・当然の状況なのだとするレトリック . . . 本文を読む
ある社会についてみるとき、外の視点から見る場合当地の視点から見る場合で、その社会の見え方が違ってくるということは、よくあることである。しかし、それだけではなく、当然のこことではあるが、内側の視点と外側の視点では、そのよって立つ原理が異なることがあり、それが見方の違いの原因となっていることがある。今日はこの点について、米の日本研究の視点と、日本人が日本社会の内部で持っている視点とを比較しつつ考えて . . . 本文を読む
最近調子が良いからか、あるいは、ずっと続けていた翻訳が一段落ついたからか(これについては別の機会で)、自分自身の研究を再開。何となく、自分の研究に関連する本に手が向くようになる。そこで今読み始めよたのが、le durkheimisme dans l'entre-deux-guerres, J-C, Marcel, pufです。
一応、専攻を社会学と自称しているのですが、日本におけるデュルケム . . . 本文を読む
私は、自称、学説と理論の研究を生業としているのですが、「学説研究の意義とは?」という質問を時々されることがあります。学説研究と呼ばれるものの中には、重箱の隅をつつくような細かな研究があり、そうした研究には、その対象に精通している人々の間では意義があるものの、その領域を少しでも出てしまうとたちまち意義がわからなくなるということがままあります。まあ、こうした事態は、専門化が進んだ領域においては、どこ . . . 本文を読む