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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

ルソーとフェミニズム

2012年06月04日 | 理論
 これまでルソーの論文を執筆していたのだが、ここでは論文に入れられなかった主題を紹介。

 ルソーとフェミニズムについて。一般的にルソーに対してどういうイメージを持っているか、実は私はわからない。とりわけフェミニズムとルソーの関係について。

 ルソーにおいて女性の地位向上運動については、非常に評価が悪い。エミールの第五巻で女性について言及があるのだが、これは今日的に言えば、女性蔑視の教育論が展開されている。この点について、ルソーの時代の歴史的制約をその理由としてあげる事も可能かもしれない。実際、仏革命時の「人権宣言」は、男性のみをたいしょうとするものであった。ただ、その翌年には女性人権宣言がだされており、女性の地位向上を求める運動は確かに存在したのだった。

 ちなみに、この『エミール』の第五巻、私は仏留学時にルソー専門のゼミに参加していた際に、主題となった部分であった(ルソーの一般的解釈が私にはわからないというのは、こうした経験から)。

 なお、この部分のルソーの意図は、「差異に基づいて考える」ことの重要性を展開したという事ができる。つまり、男性と女性を同一性の次元について議論することの欠陥をここではルソーは鋭く指摘している。

 が、ただし、ルソーにおいては「差異を持つ」ということは、市民であることから除外されることになるから、結局のところ女性は市民ではないことになる。という具合で、ルソーの立場を擁護するのは難しいのだが、仏のルソー主義者(教官が)のゼミで、私の拙い仏語で、この難しい問題設定をどう切り抜けるか頭を抱えたものだった。

 が、しかし、現在は自分なりに考えをまとめられている。そこで言えるのは、ルソーの言説をそのまま「女性蔑視」と片付けてしまうことには、女性をめぐる考え方の布置を見逃すことになりかねないと言えるのではないか、という点である。ルソーが「差異を考えること」を女性を社会の中で考える際に主張したのは、当然ながら、向きあう相手として女性の地位向上を目指す潮流があったからである。そして、わざわざ自らの主張を展開したのは、その「相手」が無視し得なかった存在であるからに違いない。という意味で、ルソーの言説を単に否定するのではなく、その背景にある現実を透かし見る媒介として検討するべきではないかと思う。
 換言すれば、差異を持つ女性は、ルソーにとって市民足り得なかった存在だったが、にもかかわらずそれを無視出来なかったのは、女性の地位向上の運動、またその背景にある女性をめぐる現実の問題があったと考えるべきだろう。

 ちなみにルソー受容の一つに関して言うと……、と、エントリーが長くなったので、続きは次回。

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